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エッセイで「読ませる」人に嫉妬する私

noteで知らない人と出会うのは、いつも宝物の箱を開けるような気もちだ。

舌切り雀のつづらのように、大きいからと言って、中身も立派とは限らない。

小さな地味な箱だったとしても、自分にとってはきらりと光る何かがあるかもしれないのだ。時には人生さえも変えてしまうかもしれないような。


文章に惚れる瞬間


たとえnoteの中の人にオススメされても、それが自分好みであるとは限らない。

好きな文章は、一行読めばわかる。正確に言うと「匂う」。

くんくん、うん、この人は好みのタイプだ。

そんな風に出会った相手の書いたものを最後まで読んで、がっかりさせられることはほとんどない。たとえ、至極平凡な人生の、ごくごくありきたりの一日を切り取ったとしても「読ませてしまう」何かがある。

誰も私に興味などない


「エッセイ」とは基本、「自分語り」である。そして、自分のことに他人は興味などない。

「イラストレーター」がどんな風に仕事をしているかに興味はあっても、「私個人」がどんなことを考えているかなんて、誰も興味はないのだ。

だから私は土曜日の駄文以外では、自分のことをできるだけ語らないようにしているつもり。私の頭にあるのは「この文章は誰かの役に立つかどうか」ということだけ。

自分のことを語っているように見えるかもしれないが、それは、その文を書くに当たって、説得力を持たせるために、書いた人間のバックボーンが必要だから。ただそれだけ。

イラストや出版について偉そうに語っているのに、実績がなくては説得力がない。結婚や離婚についても同じ。何も好き好んで「バツイチ」であることをさらす必要はないのかもしれないが、致し方ないと思っている。


文才とは


文才とは何か、という問いの答えは、答える人の数だけ違うかもしれない。明確な定義と言うものが存在するのかもしれないが、自分が考える定義はこうである。

本来そのテーマに興味のなかった人ですら「引き込んでしまう」力のある文章の書き手に備わっているチカラ。

もう一度書くけれど、本来、人は他人に興味などない。

興味を持てるのは、かろうじて自分の半径数メートル以内に収まるような小さな人間関係だけである。SNSで疲れるのは、本来興味なんて持てるはずがない範囲を超えて、人と繋がろうとするからだ。

だから、普通の人が「自分語り」をしても、「だから何?」「お前のことなんてどーでもいいし」で終わってしまうのが当たり前。

それなのに「自分語り」をしても最後まで「読ませてしまう」不思議な文章が存在する。それこそが「文才」ってやつのなせる業なのではなかろうか。


嫉妬と羨望の先に


誰のこととはあえて書かないけれど、このnoteにも、猛烈に嫉妬を感じる人がいる。フォロワーの数とか、知名度なんてどうでもいい。

そんなものより、私が嫉妬し、羨望のまなざしを向けるのは「つい引き込まれた自分」を自覚させた文章の書き手だ。

嫉妬し、羨望しながらも、今日もまた、漂う匂いに誘われて、私は読みに行く。それは新しい才能との出逢いの悦びと、敗北感に打ちひしがれる哀しみをもたらす。

これは、読むことと書くことを共に愛した者に与えられた、業のようなものなのだろう。



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