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想い出の場所は がれきの山

先日、自由が丘の駅のホームから
なにげなく自由が丘の街を見下ろして驚いた。

駅前の一角がぐるりと包囲され
中の建物は全て取り壊されている最中だった。
がれきの山。
工事の車。
ここまで音は聞こえてこないが
その光景は充分にショックだった。

「ああ、あの場所は…」

あの場所は
ハンドメイドの仲間と初めてグループ展をした場所だった。

「HEARTS」というハンドメイドのグループに誘っていただき
写真、切り絵、タイルアート、陶芸、絵画、絵本、アクセサリーなど
偏らない分野の仲間たちといっしょにグループ展をした。
5日間くらいの会期に、朝から晩まで過ごした想い出の場所。
その会場となったビルは、もう跡形もなかった。


ずっと前に、これに似た経験をもう一つしている。
子育てに悩んでいた頃に足しげく通っていた
カトリック教会が取り壊される現場を偶然見てしまった。

無くなることを知ってはいたけれど
偶然、たまたま教会の前を通りかっかたその日に
木造の古い教会に工事の業者が入っており
尖塔の十字架を残して建物の半分ほど壊されていた。

パイプオルガンの置いてあった所も
聖歌隊の歌っていた場所も、むき出しになっていた。

予期していなかった光景なので
しばらくは言葉もなく
心の温度は下がっていった。

大ショックで泣き出すほどでもなく
「寂しい」と人に言えるほど、自分が其処に何かをしたわけでもなく
見過ごして笑えるほど前向きでもなく
「そうか。もうあの場所にはもう居られないんだな」という気持ち。

ふと、カトリック教会の当時の主任司祭であった坂倉神父様の講話が思い出された。

「ひとは教会を神聖なものとして扱うが、ほんとうの神聖さは日常生活の中にある。教会は雑多な世界の中にある。あなたの周囲にあるものこそ、神の宿る場所として扱われるべきものなのだ」と。

わたしは、特に敬虔な信者でもなく
聖書の何を理解しているわけでもない。
神父様の話をどこまで深く聴いているのか
はなはだ疑問の残るところではあるが
この講話には、感動して共感した。

わたしがカトリック教会のミサの中で一番好きな言葉は
「行きましょう。主の平和と共に」
という言葉。
わたしたちの居る場所は、ここではない
「行きましょう」という言葉は
教会のミサの一番、美しいところのようにわたしには感じられる。

いつまでも想い出の場所を神聖なものとして拠り所にするのではなく
大切に胸のアルバムに挟んでおいて、次の場所へ。

もちろん、ちょっと寂しいけれど
また歩き出す。







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