乱心と輪舞を
日付も変わった午前零時四二分。ポケットに入れたスマホが小刻みに震えたのに京太郎は気づいた。彼はそれをさして気にするでもなく、火を点けたばかりの煙草をひと口吸った。
暖かな煙が喉を通って、肺を満たす。パソコンの画面と資料の往復で疲れ切った脳が、急激に濃度を増す血中のニコチンによって覚醒していく。
白い煙が紺碧に溶けていく様を眺めて、ふっと頬が緩んだ。スマホがまた、ポケットの中で震えた。確認しなくても誰からの連絡なのかわかってしまう。画面を明るくしたときに並ぶ、数々の文言を想像して、京太郎の頬はさらに綻んでいった。
「あ、アイスも買っていこうかな」
梅雨も明け、夜と言えども少し汗ばむほどになってきた。眠りに就く前に冷たいものを食べておきたかった。
コンビニの冷凍ケースの前に来た時にまた、スマホが京太郎を呼んだ。今度は少し長いバイブレーションだ。電話だ。
ブー、ブー、ブー、ブー…………
長い。もうすぐ午前一時に差し掛かろうとしている。こんな時間に電話。しかもこの呼び出しの長さである。京太郎でなければ、きっと何か急を要する連絡かと、スマホの画面を確かめるだろう。しかし、彼はスウェットのポケットに手を入れて、バイブレーションを止めるだけだった。
それから彼は勿体ぶるように時間を掛けて、アイスを三つ選んで、帰路に着いた。時間を掛けた割には、アイスのチョイスは無難なものだったが、彼はそれを入れた袋を満足そうに振り回して、アパートの部屋の扉を開けた。
壁伝いにスイッチを探る。カチッと音がすれば、数回の明滅を繰り返して蛍光灯が点いた。各所でLEDライトに切り替わっているというのに、この部屋は一向に蛍光灯なのだ。しかも、接触が悪いのか、はっきりと点灯するのに時間が掛かる。
今にも切れそうな音をさせながら、今夜も蛍光灯は無事に灯ってくれた。買っておいたアイスを袋ごと冷凍庫に放り込み、京太郎はリビングと呼ぶには狭苦しい、六畳間へと進んだ。
漫然とテレビを点けて、ベッドの上に腰を下ろす。スマホを充電コードに接続して、枕元に放り投げれば、後はごろりと横になるだけである。
テレビはくだらない深夜バラエティを垂れ流している。京太郎はそれを見るでもなく眺めて、深く息を吐いた。
ブー、ブー、ブー。
枕元で振動。スマホが京太郎を呼んだ。それを掴み取って画面を見れば、緑色のアイコンがずらりと縦に並んでいた。最近はすっかり連絡手段として定着したメッセージアプリである。
差出人は全て同じ名前である。
それを眺めて、京太郎はにやりと笑む。そして、それらの通知の一つをスワイプして、アプリを開いたのであった。
「――っ!」
既読の文字を見て、萌花は目を見開いてスマホの画面を睨んだ。画面の上部には「きょうちゃん」の文字が浮かんでいる。
チャット画面には緑色の吹き出しが延々と並んでいた。その隅に、白文字で送った時間が記されている。
〈何?〉
素っ気ない一言である。延々と送られたメッセージに対するリプライは一つもない。触れられてすらいないのだ。
「……!」
〈何してたの?〉
既読はすぐについた。
〈コンビニ〉
短い返答。萌花はさらにキーボードをタップする。
〈何で返事くれなかったの?〉
〈すぐにするようなことじゃなかったから〉
〈スマホは触れたんじゃん〉
〈後で返そうと思ってただけ〉
〈返事なかったら心配だよ?〉
そこで一度、返信が途切れる。
「何で? 何で返事が止まるの?」
萌花の中で妄想がむくむくと膨らんでいく。「きょうちゃん」は今、何をしているのだろう。コンビニから帰って、スマホを開いて、自分に返事をしながら何をしているのだろう。
それを聞きそびれてしまったことが、萌花を一層不安にする。
〈何してるの?〉
既読は、つかない。アプリを閉じたのだ。萌花はもう一度、画面をタップする。
〈ねえ? 返事くれないの?〉
〈今、一人?〉
〈電話できる?〉
〈寝たの?〉
どれだけメッセージを送っても、既読はつかなかった。萌花はメッセージアプリを一度閉じ、SNSを開く。「きょうちゃん」のアカウントを検索し、直近の投稿を確認する。
「あった……」
一瞬、萌花の顔がぱあっと明るくなったが、すぐに眉間に皺を寄せ、その投稿に目を通す。
〈アイスうまー〉
何の面白みもない投稿だ。アイスの写真を乗せている。しかも食べ掛け。溶けかかったアイスがでろん、とスプーンの窪みに流れ込んでいて、お世辞にもおいしそうには見えない。
萌花はその写真を隅々まで見て、「きょうちゃん」以外の人間の影がないかを確かめた。
――ない、か。
それにホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、彼女の目はその投稿のコメント欄へと移った。
男。
男。
……女。
三つのコメントのうち、一つが女である。
〈おいしそう。ちょうだいよ〉
それに対する「きょうちゃん」の返事。
〈嫌だ〉
その間、三分。投稿自体は、萌花とのやり取りが途絶えてから数分後である。
萌花はそのまま、誰が「いいね」を押したのかをチェックした。
コメントをした三人に加え、新たに四人のアカウントが表示される。そのうち三人が女だ。
「……」
その女のアカウントまで飛んで、どこの誰なのかを確認した。そして、そのままアプリを閉じて、「きょうちゃん」にコールする。
一つ、二つ、三つ……。
どれだけ呼んでも出てくれなかった。萌花はもう一度、メッセージを送信する。
しかし、それからいくら待っても返信は来なかった。萌花はスマホの煌々とした灯りを瞼の向こうに感じながら、いつものように浅い眠りに落ちていったのである。
容赦なく注ぐ朝日の眩しさに、京太郎は目を覚ました。時間は正午前。昨夜はバラエティ番組をだらだら見ていたら、三時を過ぎてしまった。気怠さの残る躰を起こして、ぐっと伸びをする。
欠伸とも溜息ともつかない声を発して、もう一度布団に潜り込もうとして、やめた。腹が減ったのだ。もっさりと起き上がって、台所に向かう。昨日食べたアイスの残骸が無造作に流しに捨てられていた。
他にも数日前に使ったどんぶりも水を張られたままだ。
洗い物をしなければ、という面倒さが京太郎をげんなりさせたが、別段急ぐものでもないと開き直って、頭上にある戸棚を開けた。中には普段使わない調理器具がいくつか鎮座している。その隙間を埋めるように、カップ麺が整然と置かれていた。
そのうちの一つを取って、フィルムを剥がす。そのとき、ベッドの方でスマホの震える音が聞こえた。剥がしたフィルムをゴミ箱に捨てると、カップ麺を手に持ったままベッドの方へ向かった。
アラームではなかった。そんな時間にセットした覚えもないのだから、当然だ。バイブレーションは着信によるものだ。
「萌花」とだけ表示されたディスプレイを見て、京太郎はふっと視線を宙に漂わせた。
充電コードを外して、イヤホンコードを繋ぐ。画面をスワイプして、イヤホンを耳に嵌める。
「もしもし?」
「もしもし、京ちゃん?」
「ああ、おはよう」
「もうお昼だし」
「ははは」
力なく笑うと、萌花の声のトーンが変わった。
「ねえ、昨夜は何してたの? 電話したのに」
「寝てたんだよ」
「嘘ばっかり。アイスは美味しかった? 女の子とリプのやり取りして、楽しそうだったね?」
「ああ、あれね? あの後すぐに寝ちゃったんだって」
「……」
萌花は黙ったまま何も言わない。京太郎も口を噤んだまま、カップ麺の蓋を開けた。ポットから湯を注いで、その上に箸を置く。
一度ポケットからスマホを取り出して、時間を確認した。
「私より、あの女の方がいいんだ」
「どういう理屈だよ」
「だって、私のこと無視して、リプ送ってんじゃん」
「たまたま気づかなかっただけだって。あの後疲れて、気づいたら寝てたんだから」
「信じられない」
「何でだよ」
うんざり、とでも言いたげに京太郎は溢す。実際うんざりはしている。しかし、萌花を手放す気もなかった。
「いいよ。今日は高岸先輩のところ行くし。飲み会、するんだって」
「おいおい」
高岸とは萌花と京太郎の所属するサークルの、二つ上の先輩であった。頻繁に飲み会を開いて、女を漁ると評判の男だ。萌花も漏れなく、彼の餌食となっていた。
しかし、その事実を京太郎は何とも思っていなかった。むしろ、萌花を自分に繋ぎ留めておくために利用しているとも言っていい。
「それは、待てって」
「……何で? 何もないし、大丈夫だよ」
萌花は勝ち誇ったように言った。
「今夜、会えない?」
「飲み会行くって言ってるじゃん」
「いや、それやめれば?」
「何言ってんの? そんなの私の自由だし」
「終わったら連絡してよ。迎えに行くし」
「いいってば」
「じゃあ、次いつ会えるの?」
「知らないし」
「……明日の夜は?」
「……」
萌花は黙り込んだ。京太郎は彼女の言葉をじっと待った。
答えは決まっている。京太郎はそれもわかって、訊いているのだ。
「勝手にすれば?」
「……わかった」
それを聞いて、京太郎は苦しそうに答えた。その口元は小さく笑みを浮かべている。
「じゃあ、また明日の夜に」
「さあ、会えるといいね」
萌花は投げ捨てるように言った。しかし、電話は切らない。
「ああ、そうだね」
京太郎は力なく答えて電話を切った。すぐさまスマホが震えた。メッセージが届く。
〈切るんだ。電話〉
〈ごめん。用事があるから〉
〈へえ〉
〈ごめん〉
それから萌花からの返信はなくなった。京太郎はカップ麺の蓋を剥がして、箸を持った。
麺を啜りながら、彼の頭は明日の夜のことでいっぱいだった。
ここのところ忙しくて、誰ともセックスできてなかった。自分の手で慰めるだけでは、どうにも物足りない。いや、自分の気持ちいいところは自分が一番知っているのだから、気持ちよさで言えば自分で〝する〟のが一番だ。
しかし、女の躰の柔らかさや声や体温は、セックスじゃなきゃ味わえない。失恋して女に飢えた同級生がラブドールを買って、その良さを熱弁していたが、生憎京太郎はそこまで女に困っているわけでもなかった。
油の浮いた、不健康なスープを飲み干して、冷えたウーロン茶を一気に呷る。カップ麺の少し不快な後味と共に、ウーロン茶の香りが鼻を抜けていった。
京太郎はひと息吐くと、そのまま横になった。
今日は一日、何の用事もない。暇そうな同級生に適当にメッセージを送っておく。返信があれば、どこか遊びに行こう。
そうしてスマホを床に放ると、京太郎は目を瞑った。
明日の夜の光景が、ありありと目に浮かぶ。玄関を開いた瞬間の、勝ち誇ったような萌花の顔の中に、ほんの僅かに滲み出る安堵の表情を想像しながら、京太郎は薄い笑みを浮かべた。
隣の部屋から昼のワイドショーがうっすらと聞こえてきた。芸人か誰かが気の利いたコメントをしたのだろうか、スタジオがどっと沸き、部屋の住人も高い笑い声を上げていた。
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つれづれなるままに物語を綴っております。何か心に留まるものがありましたら、ご支援くださいまし。