「検閲」について日記(20190928)

 一日ってこんな短かったっけってなりますね。「毎日こうしたい」みたいなことがあると。あれ、いつの間にか、それやる時間なくなっちゃった、みたいな。今が、どんどん過ぎて行って取り戻せなくなっていく感覚が怖くて、少しくらい止まってくれないかなと思うんですけど、そうもいきませんね。やりたいこととは別に、やらなきゃいけないことがたくさん、複雑にあって、それを少しずつほどいているうちに、眠くなってきてしまうみたいな。あれー、あのこと考えたかったんだけど、後回しにしよう、となって、一番大変な時期にまとめて解決しなきゃいけないなんて事態になることもざらです。

 正直、言及するほど詳しくありませんけれど、芸術の世界が大変な時期に差し掛かっているようで、「検閲」が始まっているのでは、という言葉をSNSで見るようになりました。政治や経済のために、表現の自由は制限されてよいという判断が、実質的に示されるようになってきた、という風に勝手に自分の中でまとめ、居心地の悪さを感じているのですが、これは結局現代でも、思考停止する心地よさ、考えなくていい気楽さみたいなものから離れられていないからなのでは、という気がします。少し前までは、「完璧」とか「最大の魅力を生み出す」とか「絶対的な正義」というようなものが、まだ、あると信じられていて、それを目指して進めていく、そのためには多少の犠牲、例えば暴力とか、は仕方ない、諦めろという形の思考停止の仕方があって。でも最近は、そういう求めている価値って、場合によって変わるよね、相対的だよね、っていうのが分かってきてしまった。そのことで、とりあえず「戦争」「暴力」「制限」には反対していこうという空気は生まれはしたはずなんですが。現代はむしろ、「絶対」なんてないんだから、部分的には戦争してもいいんじゃない?外国とか自分の影響のないところなら、暴力があってもいいんじゃない?お金が儲かるなら制限した方がいいんじゃない?だって、世界中見たら当たり前にやってるんだからとか、究極を言えば「加害者になっても自分が被害を受けなければいい」みたいな、別の形の、自分に被害がなければいい的な思考停止が結局行われているような気がします。

 思考停止、というと、一面的に批判している感じになってしまいますが、別の言い方をすれば、少しは、整った説明にもできるかと思います。「ある程度の自衛力がなければ国を守れない」「ある程度の制限がなければ風俗が乱される」「実質的な事件の火種を、まず消さなければいけない」「国民的な感情に配慮しなければいけない」とかでしょうかね。あまり納得いかないことも多いですが。でも、突き詰めていくと非常に複雑で正解のない、「面倒な」手続き・やり取り・変更を行わなければならなくなってくるから、「自分が、今すぐ、被害を受けないようにする」という一番緊急になってしまった課題を解決できる方法が選ばれていっているような気がします。そういう感情が大勢集まる、もしくは権力・発言力の強いひとがそれを宣言すると、「表現の自由」なんてものは簡単に制限される、ということなのかなと思います。こうなってくると、「なんで?」というような判断が大々的に進行していたり、強引に押し進められたり。。でも、それを個人のレベルまで落とし込んでいくと、大事なことを後回しにしていくのは、一番初めに書いたみたいに、頻繁にあるような気もしてきます。今も僕は来月の生活費払えるのかな?もう少しバイト入れなきゃまずいかな、でも体力持つかな。なんてことを頭の片隅に置きながら書いていて、人生をかけてやっていきたいとも思っていない、大事じゃないと思っていることを、なぜか優先して考えて進めていってしまうということは実はよく起こっていることなのではないかと思えてしまいます。

 そんなくだらない、身近な話じゃない、んですかね?書いてて思いましたけど。国の頭がいい人たちが大勢集まって考えてるから、解決策にはもっとちゃんとした理由があるはず、なんですかね?そうかもしれません。それでも、戦争していたころと同じ方に話が転がっていってしまうのは、もっと根深い問題が潜んでいるような気もします。けれど、当面は思考停止しないように気をつけなければいけないのではないかと思います。その上で大事なことを見極め行動したい。面倒なことになることを怖れず。。

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