うまい役者とは何か

 うまい役者とは何かについて考えてみた。そもそもの発端としては、自分の好きなジャンルの演劇がどのようにして成り立っているのかという疑問だと思う。例えば、アングラと称されるような作品や身体表現が多用されるような作品など、従来のメソッドを単純に利用しただけでは作れないような世界観の作品が好きで、そのような作品を作るためには、役者とどういう言葉を持って接すればよいのかと考えたことから始まる。
 うまい役者というのは人によるかと思うが、演出家の一人ひとりが「うまい役者の定義」を持っていることは重要なのではないかと思う。稽古場でのコミュニケーションの基盤になりうるからだ。「定義」は、そのまま稽古場作りの考え方の材料となる。以下に、現在、自分が考えている定義を記し、詳細を述べていく。

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【うまい役者の定義】

「動機を眺める」ことができる役者

(役者は、あるセリフを発する動機を、なるべく広範囲に意識し、かつ、どの動機も絶対視してはいけないのではないか )

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 「動機」とは、「なぜそのセリフを発するのか」ということで、挙げようとすれば無限に出てくる。役柄の心情・相手役との関係・その場面の場所・歴史的な背景・戯曲の構造・脚本家の意向・演出家の言動・役者自身の感情・劇場の様子・演劇という表現の目的など自分をそのセリフへと導くすべての事柄である。 演劇では「役に入り込んでいるように見せる」ことが魅力的に映る場合が多い。観客は自分が見られることなく、劇的な人間模様を見たい。見る立場であることの快感があり、基本的には、このことが演劇を成り立たせている。そこで役者には、役柄を「本物らしく」見せ、観客を、見る立場に置き続ける技術が必要とされる。例外はあるが、役者が「素に戻る」瞬間は下手な演技とされることが多い。そこで、役者は「なぜそのセリフを発するのか」と自身に問い、「動機」をセリフに対して定めることで、演技の方針を決めることができる。「役柄の動機」を考え、セリフ以外の身体動作や声色などを補完することで役柄になりきる。ある役柄がなぜ、そのセリフを発したのか考えることで、違和感なく言動を行えるようにしていく。「動機」は演じ方を決める時の材料になる。では、役者はその、無限に挙げられる「動機」の中から、どのように演技を選択すればいいのだろうか。
 役者はその役柄に「なる」ことはできない。「本物らしく」見せることはできても、「本物になる」ことはできない。ここで動機に関して問題が発生する。「役柄の動機」ばかり突き詰め、その役柄に変身することばかりを求めても、芝居としての魅力を生むことが出来ない。役者はその役柄にどれだけ没入しようとしても、その役柄を意識する以上のことはできない。意識する以上のことを求め、直接的に「表現」しようとすると、緊張が生まれてしまう。例えば、相手役のアクションに柔軟に対応できない、作品の方向性を無視してしまうなど。役者個人の感覚を消し去ることはできないし、できたとしても、 観客もしくは相手役から「見られている」という意識を失うと、方向性を見失ってしまう。自分が今他人からどう見えているのか、を柔軟に感じとり、対応できる役者は魅力的に映るものである。
 一方で、「動機」を意識する努力を諦めてしまうと、芝居をする目的がなくなる。完全に役者個人として舞台上に立つことは、できたとしても演じる意味がなくなってしまう。何らかの物語・人物を演じて表現する演劇という媒体では、ある作品上の人物として「本物らしく」見せる努力はないがしろにできない。
 結局は「役柄として振る舞うこと」と「見られていることへの意識」の両方を乗りこなしている人間が魅力的に映る。どちらかを完全に極めることは不可能、もしくは無意味なのだから、両方に寄り添い、その間を揺れるだけの自分に甘んじなくてはいけない。演出を意識しつつ忘れる、というような言葉が表しているのはその手のことだと思われる。見られている役者としての自分を意識しつつ、その役柄として振る舞う。言語化しようとすると矛盾を孕んでいるようだが、演じる上では重要なことだと思う。

 つまり、「動機を眺める」というのは、動機を探し出す努力は怠らず、かつ、動機を「意識するのみに留める」ということである。

 そのためには演じる前に準備が必要だと思われる。そのセリフを発するにあたり、なるべく広範囲の動機を挙げてみる。それは役柄の動機のみにとどまらない。その役は相手役からどう思われているのか、そこはどういう場所なのか、その場面がどこに向かっているか、最終的にはどこに向かわなければいけないのか、この芝居は何を表現するためのものなのか、劇場はどういう空間なのか、自分はなぜ役者をやっているのか、など、可能な限りに挙げていく。また、演じている最中にも動機への意識は止めてはいけない。相手役はどんな表情をしているのか、自分の姿がどう見えているのか、観客の反応はどうか、など、自分をセリフへと導くものを意識する。そして、そのどれにも捉われてはいけない。例えば、音楽的なリズムを演出として付ける場合であれば、極端に言えば、日常的にありえない速度で話すことを要求することがある。その演出を採用しようとすると現実的な会話ではなくなり、役柄の感情は不自然なものとなる。その時に、「動機を眺める」ことができれば、演出も役柄も絶対視せず、両方を意識した方法を探し出す可能性ができる。どちらかを必ず捨てなければいけないのではなく、常に第三の表現を探し出す姿勢を、稽古中本番中に関わらず取り続けることが肝心なのではないかと思う。動機を意識することを諦めず、探し出す。それをどう表現に結び付けるか考える。「私は、どう眺めたか」を表現し、分かち合う。しかし、そのどれにも捉われない。そのことで表現の質を高めていくことにつながるのではないかと思う。

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