「なぜ、『マクベス』を上演したいのか」

 今月末に迫っている番外公演『マクベス』と前回のひねもすほろすけ第四回公演『スモール・フリーク・ショー』について書きます。「なぜ、『マクベス』を上演したいのか」について、改めて明確にしておくために、以前、ツイッターで載せた内容を詳しくする形ですが、まとめてみようと思います。実はたまたまなのですが、テーマが似通った作品を二年続けて上演することになります。共通しているのは、人間の持っている矛盾や、両義性についての作品だということです。例えば、「善悪」は絶対的ではなく、優しさが人を傷つけたり、愛が暴力を生んだりすることがあり、表裏一体・相対的であることなど、『スモール・フリーク・ショー』も『マクベス』も、両義性(物事が相反する二つの性質を持っていること)について、主な題材としている作品となっています。


 『マクベス』の結末は、「暴政を行った悪人マクベスが殺され平和が訪れる」という形ですが、「マクベスを殺す行為は悪ではないと言い切れるか?」と疑問を持ち始めると、微妙になってきます。「善悪の定義による」というような曖昧な答えしか出せないか、目をそらしたような態度しかとることができません。例えば、「人殺しは悪いことであり、話し合いで解決すべき」という倫理観の社会の下では、殺す対象が「悪人」だったとしても、その人を殺す行為は「悪」となります。それでも「マクベスを殺す行為は悪ではなかった」と言い切るためには、そのような異なった価値観が存在する可能性から目をそらす必要があります。魔女の「きれいは汚い、汚いはきれい」というセリフはこのことをよく表しています。「マクベスを殺すこと」は、国家にとって「善」だったかもしれませんが、人を殺すという点においては「悪」とも捉えられます。物事は捉え方により揺れ動く、善悪の両義性を持っていると言えます。
 去年の2月に上演した、『スモール・フリーク・ショー』では、「障害」に題材を取り、この種類の矛盾・両義性を描こうとしました。フリーク・ショーとは見世物小屋という意味なのですが、見世物小屋では、「醜い」ものが価値あるものとされます。人々は、奇形や欠損、容姿の醜さに珍しさを求めて、それらが「価値」を持ちます。「障害を商売道具にしてはいけない」というような倫理観も「物珍しさに金を落とす客」の経済効果に負けてしまいます。そこでは、善悪や高い・安い、貴賤などの価値判断が反転する可能性を持っていることが示されています。人間は、不幸や欠点をも売り物にします。このことについても「汚いはきれい」というセリフが当てはまります。

 このような両義性は、しばしば悲劇をもたらします。マクベスにとって、王座は初め、「高貴さ」の象徴でした。しかし、殺人によって得られた王座は「卑しさ」を象徴するように感じて、不安に襲われます。王座=「高貴」という図式は、必ず成り立つわけではなく、マクベスにとって、殺人の記憶を呼び覚まし「卑しさ」を突きつけてくる地位となってしまいます。マクベスは、王座の「高貴」によって殺人に誘いこまれ、王座の「卑しさ」によって、破滅に追いやられます。王座の持つ両義性によって、眠れないほどの不安に襲われる生涯を送ることとなります。この『マクベス』の悲劇性は、「結局この主人公はどうすればよかったのか」と問いかけたとき、絶対的に正しい答えが存在しないことからくるものだと思います。マクベスには、抑えきれない野心があり、そそのかされたとはいえ、それを実行する行動力と環境がありました。その野心や行動力自体を否定することは難しいことだと考えられます。人間には常に、完全には満たされない欲望があり、それが行動を促します。そこで与えられる行動の選択肢は、その場で絶対的に善悪や価値を定められるものではありません。その行動が「良い行動であったか」「価値ある行動であったか」は事後的に、また、恣意的に決められます。突き詰めれば善悪は、「行動した後に、流れで、なんとなく」決められるものです。常に「正しい」行動を取っていくことは不可能なことだと考えられます。
 障害に対しても、同じ問題が起きます。例えば、「差別をしないよう振る舞わなければならない」という価値観は「正しい」とされることが多いですが、この道徳心も相対的なものです。差別はいけない、と全人類を平等に扱おうとすると、「障害者」はむしろ、問題を抱えていくこととなります。乗り物でも道具やサービスでも同じものを与えられたとしたら、扱えなかったり使用するのに時間がかかったりというような問題が発生します。結果的に、現在行われている差別撤廃は「不公平のように思える待遇の改善」や「なんとなく差別に聞こえる言葉の廃止」等に収まっていますし、そうならざるを得ないと考えられます。

 これらの問題には生涯答えが出せないまま、『マクベス』で言うと、「白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、筋の通った意味などない」人生を終えていかなければなりません。このような正解のない「空虚さ」が人間の根本に存在しています。両義性の問題に向き合っていくと、最後には、この空虚さを諦めることしかできません。「この諦めをどう捉えるか」でしか迷えない、不条理な世界に人間は存在しています。しかし、マクベスは、この空虚さに、とにかく「気付いている」と僕は考えています。そして、それでも開き直り、前向きに生きようとします。その姿は滑稽で、何の価値もないようにも思えますが、上演せずにはいられない力を感じます。この「気付く」魅力を表現できれば、何かを一歩進めることができるような気がして、「なんとなく」だけれど「必ず」上演したいと考えています。劇場に足を運んで頂ければ幸いです。

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