わだかまりが解けるとき―内田也哉子さんの葬儀挨拶から思うこと

わたしが幼稚園児だった頃、兄は中学生で不登校だった。なんとか学校に行かせようと、母は兄にひどいことをした。たぶん、学校に行かない息子をどうしていいのかわからなくなっていたのだろう。わたしはその場面を見ていたが、いつの間にかすっかり忘れていた。しかし中学生になってから、些細なことがきっかけでフラッシュバックしてしまう。友達に「ごはんがおいしくて優しいお母さんでいいな」と事あるごとにうらやましがられ、母を誇りに思っていたのに、裏切られたような気持ちになった。それから母のことを信じられなくなった。

学校や会社で嫌なことがあり精神状態が悪くなると、いつもフラッシュバックが起きて必要以上にわたしを苦しめた。信じてもいいかなと思った人に打ち明けると「トラウマだらけだね」と忌まわしそうに言われたので、もう誰にも言わないことに決めた。
20代後半にストレスを抱えたまま結婚して引越して職場も変わって、環境にうまく適応できずにうつになった時「わたしは何の役にも立たない。生きていても仕方ない」という思いで頭がいっぱいになった。毎日死ぬことを考えていた。それはむしろ衝動で、駅のホームにいれば走ってくる電車に飛び込みたくなるし、自宅マンションにいれば飛び降りたくなるし、キッチンに行って包丁で首を掻き切りたい、というものだった。かなり強い衝動だったが、必死で我慢した。なんだか変な言い回しだけど。

それから10年経って、わたしはまだ生きている。こんなわたしでも死んだら家族が悲しむ、という一心でどうにか衝動を抑えることができた。自分本位に考えれば死ぬほうがよっぽど楽だったのに、自分を苦しめている家族のために生きていようと思ったのだった。ここ数年の間に父が亡くなり、兄(不登校の兄とは違う)が病気で倒れ、その都度パニックになる母を支えてきた。面倒な諸々の手続きや母の精神的なケアをしながら、なんでわたしがここまでしなければいけないんだと何度も思った。それでもやめなかった。自分でもわからなかったのだが、最近ようやくわかったような気がする。つい先日、母が言った。
「いろいろしてくれてありがとう。助かってる」
これだけで、長年わたしの胸につかえていたものが消えていった。

なんてことないお礼の言葉。でもわたしにとって、ずっと聞きたかったものだった。30年以上前、母が不登校の兄にひどいことをして、わたしはその場を収めたくてある行動をとった。しかし幼いわたしに大したことができるわけもなくショックを受けた。それに追い打ちをかけるように母はうんざりした顔で吐き捨てるように私に言った。
「そんなことしたってしょうがないでしょ」
今でもこの場面は昨日のことのように思い出せる。わたしは幼いころ母に言ってもらえなかった「ありがとう」を取りもどすために、母を助け支えていたのかもしれないと思った。今までしていたことはすべて自分のためだったのだ。

なぜこんな話を書こうかと思ったかというと、樹木希林さんの葬儀で内田也哉子さんが挨拶した内容が心に響いたからだった。(内容はこちら
一緒に暮らさなかった父と母の関係性に長年わだかまりを持っていた也哉子さんは、葬儀の数日前、74年に父から母へ宛てた手紙を見つけた。也哉子さんはその手紙を読んで父から母への感謝や愛情を知り、理解しがたい父の内面を知り、長い間手紙を保管していた母の思いを知った。そこでようやく也哉子さんのわだかまりが解けたのだった。わたしとは全然状況が違うけれど、也哉子さんが持っていたわだかまりや苦しみがなんとなく理解できる。長年散々苦しんだのにちょっとしたことで解けてしまったときの呆気にとられたような気分も戸惑いも。

変わった家族の関係性は他人から見れば理解できないこともある。本人たちだってそうかもしれない。でも、その中で努力してどうにかバランスをとって成り立たせている。傍から見ると破綻しているような家族が、よく見れば細くて丈夫な糸で強く結ばれていることもあるだろう。家族の姿に決まった正解はない。家族それぞれとの糸が切れないように、わだかまりや怒りや愛情を複雑に絡ませ、もがきながらでも紡いでいければそれでいいのではないか。もしかしたら、いつか自分を苦しめる拘泥を捨てられる日が来るかもしれない。

先日、母とふたりで日本橋に出かけた。アートアクアリウムを見て、天ぷらを食べ、サイズが合わないとかなんとか言いながら服を買った。夕食用に干物を買い、楽しかったねと言って別れそれぞれの家に帰る。なんだか普通の母娘のようだったな、と妙に居心地が悪いような、それでいてすっきりした気分になった。
これからのわたしは、自然な気持ちで母のためにいろいろなことをできそうだ。

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