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【創作】散る桜のレール(1/2)

アラフォー男女の小さな物語です。

***

「インフルエンザだね」
年配で小太りの医者は紙のカルテを見ながらだるそうに言った。顔が上気し、倦怠感を滲ませている由香里のほうをまだ一度も見ていない。
「もう4月なのにインフルエンザですか」
由香里はつい抗議してしまう。抵抗したところで判定が覆るわけがないのだが、そうせずにはいられない。近ごろ気温の変化が激しかったから、風邪を引いたのだろうと思っていた。処方薬を飲んで新年度のばたついたスケジュールを乗り切るつもりだったのに、インフルエンザになってしまってはどうしようもない。
「うん、A型のね。薬を飲んで安静に」
カルテに書き込みながらの医者の発言は必要最小限。取りつく島もない。由香里は診察室を後にした。

会計を待つあいだも、帰りの電車に乗ってからも由香里はメールを打ち続けた。上司や同僚、数日中にアポのある取引先に連絡しておかなければいけない。早く処理せねばと焦るものの、高熱のせいか思考がまとまらず、いつものようには言葉が出てこない。
しばらくすると画面の文字がゆがんでいるように感じてスマホから目を離した。このままメールを打っていたら気分が悪くなりそうだ。スマホをバッグにしまい、日が傾きはじめた窓の外を眺めた。高架を走る電車からはビルや住宅がびっしりと立ち並ぶ様子が見える。遠くのほうは白くかすんでぼやけている。どこを見るともなくぼんやりしていると、十数年通って嫌というほど見た風景のはずなのに、何かが違っているように感じた。

桜だ。
桜が無表情な建物の合間に淡い色を浮かべていた。その多くは花が咲いていなければ目に止めなかっただろう場所だった。惜しげもなく生命力を誇示しているさまに目を奪われ、由香里は重くだるい目をせわしなく動かした。ひとつも取りこぼしたくなかった。インフルエンザに侵された体に生命力を分けてもらいたかったからかもしれない。

自宅に着くころにはあたりは暗くなりかけていた。玄関を開け、電気をつける。なだれ込むように部屋に入り、スーツを脱ぎ捨ててパジャマに着替えて、帰りに買ったプリンをかきこみ薬を飲んでベッドにもぐりこんだ。体中がみしみしと痛む。頭もズキズキする。早く眠ってしまいたいのに体がつらくて寝つけない。目を開けて天井の模様を見つめた。こういうとき、ひとりはつらい。気持ちまで弱くなってしまう。どうしてこうなってしまったのだろう。なかば朦朧としながら思いを巡らせた。

仕事はプレッシャーもあるけれどやりがいがあって楽しい、と思う。3年前に責任のあるポジションを任されて、裁量が増したことによってその思いは一層強くなった。友人たちは次々と結婚し子供を産んでいるが、うらやましいと思ったことは一度もない。ひとつのことにのめり込んでしまうタイプの自分には、仕事と家庭を両立できる自信がないし、しようとも思わない。もしものすごく好きな人がいたら結婚くらいはしたのかもしれないけれど、それほどの人が現れたことはなかった。だいぶ昔、そうなるかもしれないと思った人はいたけれど。そうなるとしたらあのときだったんだろうな、と由香里はぼんやりと思い出していた。
あのとき違う道を選んでいたら、なにかが変わっていただろうか。



15年前、3月の最終土曜日。大学時代のテニスサークルの仲間が集まり花見をした。20人ほどの宴会は学生時代を思い出させる盛り上がりで、みな桜など一切目に入っていなかった。まもなく社会人3年目を迎える由香里は仕事のことで頭がいっぱいで悪ノリについていく気力も起きず、誰にも声をかけずに宴席を離れることにした。仲間の笑い声に合わせて笑いながらさりげなく荷物を引き寄せて立ち上がろうとしたとき、輪の向かいに座っていた先輩と目が合った。先輩の口角がかすかに上がったので思わずそれに合わせた。帰ろうという気持ちが少し揺らいだものの思い直して、トイレに立つようなそぶりでその場を去った。誰も自分が帰るとは思わないはずだ。

大きな桜の木が立ち並ぶ公園の遊歩道にはたくさんの花見客が陣取っていて、桜を見に来たのか宴会する人たちを見に来たのかわからないくらいだった。由香里はため息をついて目線を上げた。賑やかな人々が自分のことを見てくれているかどうかなどお構いなしに、満開の桜はどこか誇らしげだった。ときどき吹く弱い風に花びらがはらはらと舞った。きっと来週にはすっかり散ってしまう。あっという間に散ってしまうことがわかっているから、人は躍起になって花見をするのだろうか、と由香里は考えた。
「散りはじめたね」
不意に聞こえた声に振り向くと、先ほど目が合ったひとつ上の先輩がいた。
「吉岡さん」
とっさに名前を呼んだもののその後が続かない。由香里は鼓動が強く早くなっていくのを感じた。
「帰るんでしょ?俺もだいぶ酔ったから帰ろうと思って」
吉岡は気負いなく由香里の横に並んだ。由香里はそうです、と返事するのが精一杯だった。
「酔い覚ましに少し歩かない?」


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