書けないのはそんなに悪いことじゃない

年が明けてから「言葉」や「書くこと」に関する本を何冊か読んできた。なかなかnoteを書けないから。わたしの場合、書くことが仕事ではないので書けなくても生活のうえで特に困ることはない。誰かに迷惑をかけるわけでもない。それでもなんだか書けないことが寂しいというか、自分の中でくすぶっているものを感じるので、やっぱりそれを書いて表に出したいと思う。

もうずっと長いこと、感情が凝縮されたものが心の中にぎっしりと詰まっていて出てこない。たぶん小出しにしていればこんなことにならなかったのだろうけど、長いあいだ抑制したのがよくなかった。「書く」だけでなく「話す」とか「楽器を弾く」とかするなかで表に出す方法があったのだろうけど、ほとんどそれをしなかったので、鬱屈した感情が自分の内面に積もり積もっていった。

いまはそれを少しずつ剥がして外に出している最中なのだ。圧縮され干からびた感情のかけらを眺めてそのまま捨てたり、水をかけて戻してみたりしているのだと思う。noteを書こうとすると過去の話が多くなるのはそのせいかもしれない。

そんなわけで興味の赴くままに何冊か読んだところ、書けないとか言葉が出ないということはそれほど悪いことではないということがわかった。「書く」というのはまだ語っていないことを「言葉」として読み取ってあらわすことをいう。目で見えるものの状況などを説明しようと思えばわりとすぐに言葉にできる。ただこの世界、人と人のあいだは目に見えないもので埋め尽くされている。比較的容易に言語化できるものもあるけれど、一筋縄ではいかないこともたくさんある。ましてうつを経験したわたしの頭と心はだいぶこじれてしまっている。なにかで胸がいっぱいで外に出したいのに、言葉に変換して出すことが難しい。語彙力や表現力の問題はあると思う。でもいくつかの本によれば、新たな発見や言葉との関係を深める兆しにも取れるという。

書けないという実感は、容易に言葉にならない豊饒な何ものかを発見しつつある兆しだともいえる。
(若松英輔「言葉の贈り物」より)

たしかにいま胸がいっぱいで苦しいのだけど、絶望的な気分ではなくどこか希望を感じている自分がいる。空いちめん曇っているけど、なんとなく明るさを感じてもうすぐ太陽が姿を見せるのではないかという予感のような。

見たり感じたりしたすべてのことを言葉に置き換えることはできないが、可能なかぎり言葉にし文章にする。たくさんの文章で塗りたくったキャンバスに、なお塗られていない部分が残る。書き手ができることはそこまでで、あとは読み手がキャンバスを見て描かれたものを見て、どんな色が重ねられているのか想像したり、塗られていない部分がまるでなにかをかたどっているかのように感じたりする。その結果、読み手になにかしらの感情なり思いが沸き起こってくれば、その時に作品として完成したといえるのだろう。

わたしが書けないと思っている内面的なものについては、とにかく書けるところからすこしずつ書いていくしかないのだと思う。語彙量を増やし、表現力をつけながら、ときに俯瞰し、ときに深く潜りこんで、すこしずつすこしずつ。

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ありがとうございます!
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コメント2件

! 私もあります…! こう、なんというか遠回りしていて、全然辿りつかなくて、もやもやする日というか…

で、書けるようになってから、そっか、こんなこと考えてたんだなーって、思う。
こんにちは世界さん
もやもやするときありますよね!
いざ書いてみると思いもよらないようなフレーズが出てきたりします。不思議ですよねー
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