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【創作】散る桜のレール(2/2)

アラフォー男女の小さな物語です。
ひとり高熱に浮かされながら由香里が思い出す「あのとき」とは。
第1話はこちら

***

春らしい暖かく穏やかな日が増えたが、夜になると冬を思い出せと言わんばかりに冷えてくる。仲間の輪の中にいたときはそれほど寒いと感じなかったが、ひんやりした空気を肌に感じた。
吉岡は危なげない足取りで駅とは違う方向に歩きはじめた。まるでどこが目的地か分かっているようだった。由香里はうつむいて黙ってついていく。こういうときに何を話せばよいのかわからなかった。
10分ほど歩いたところで、由香里は地面に点々と白いものが落ちていることに気づいた。歩みを進めるごとに、その量は増していく。
「だいぶ散ってるな」
顔を上げると、道沿いに立派な桜が姿を覗かせていた。住宅と住宅のあいだで街灯に照らされてやや窮屈そうに、しかし堂々と咲いている。ふたりは足を止めた。
「さっきの公園の桜より早いですね。でも私、散り際の桜も好きです」
幹はどっしりと太く、高さは隣の2階建て住宅を優に超えている。由香里は次々と花びらが散りゆく様子につい見とれた。
「俺も。それに桜を見るなら、大勢で大騒ぎするよりも静かにただ眺めていたいよ」
吉岡は由香里を見つめて言った。由香里はようやく視線に気づいて、そうですね、と短く返した。学生時代から、吉岡とは細かいところの感性が似ていると思っていた。だから惹かれた。吉岡に彼女がいたから好きだとは言えなかったけれど。
「ここまで来たら、次の駅まで歩こうか」
由香里はうなずき、ふたりは再び歩きはじめた。
吉岡は何かを話すこともなく、由香里も黙々と歩いた。吉岡に他意はなく、本当に酔い覚ましのために歩いているのだろう、と由香里は思った。ここに自分がいてもいなくても、吉岡にとってはどうでもいいことなのだ。

ふたりは迷うことなく駅に着き、電車に乗った。席が空いていたので並んで座った。ふたりの肩が触れる。
「結構歩いたね。付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそありがとうございます。立派な桜を見られてよかった」
右横を見ると、吉岡がやさしく笑った。由香里は胸がつまるような思いがしてゆっくりと目を逸らした。花見の最中、吉岡は彼女と別れたらしい、と同期から聞いた。気持ちを伝えるなら今がいい機会かもしれない。でも、もし別れたばかりだったとしたら、最悪のタイミングになってしまう。そもそも、久しぶりに会った後輩からいきなり告白されたら戸惑うのではないか。由香里の思考はぐるぐると回った。
我に返って再び隣の様子をうかがうと、吉岡は目を閉じていた。由香里は少しがっかりしてうつむいた。盛り上がっていたのは自分ひとりだけなのがむなしかった。
いくつかの駅を過ぎたとき、ゆっくりと右肩に重みがかかってくるのを感じた。想い人は本格的に眠りに入ってしまったらしい。由香里も体を少し寄せた。眠っているのだし、隣に座っているのだからこれくらいは許されるだろう。
あと数駅でA駅に着く。そこでそれぞれ別の路線に乗り換えることになる。吉岡が起きる気配はない。着く前に起こさなくてはいけなくなりそうだ。そのとき由香里にある考えがよぎった。
自分も寝たふりをして、このまま吉岡が起きなければ……

由香里は強く意識が引き上げられるような感覚で目が覚めた。見覚えのある天井の模様。いつの間にか眠っていたようだ。体は汗でじっとりと湿っている。節々の痛みは寝る前よりもいくぶん和らいでいたが、体が重くてすぐに動く気にはなれなかった。小さく唸り声を上げて伸びをしたあと、枕元に置いたスマホを手に取った。暗い部屋でディスプレイが眩しくて片目で時間を見る。3時間ほど寝ていたらしい。
意を決してベッドから起きだし、ひどく緩慢な動きで汗を拭き着替えをして、スポーツドリンクをちびちびと飲んだ。テニスしたあととは違い、こういうときのスポーツドリンクは妙に甘さが口に残る。コップ1杯飲み干してから口をゆすいで、のろのろとベッドに戻った。

あの夜、由香里は散々迷った挙句、A駅に着く直前で吉岡に声をかけた。もしすぐに目を覚まさなければ乗り過ごしてしまう。しかし、期待に反して吉岡は目を開けた。由香里はこれが答えなのだと悟った。ふたりはA駅で軽く挨拶して別れた。
それから何度目かのサークルの集まりで吉岡が新しい彼女と付き合いはじめたと知った。2年後にその彼女と結婚して、いまは2児の父親になっている。友人から入る情報を耳にする程度で、もう何年も会っていない。会ったところでなにかが起こるわけもない。とにかく、いまはよく休んで、できるだけ早いうちに仕事に復帰しなければ。
やがて由香里は深い眠りに落ちた。

**

休日の午後。吉岡は近所の公園で友人家族と花見をしていた。自分の子どもと友人の子どもを相手に遊んで走り回り、いい加減飽きてきたが、子どもたちはまだまだ遊び足りない。レジャーシートに座って談笑している友人に目線で助けを求めると、察しよく立ち上がり交代してくれた。ベンチに腰掛けてやれやれとため息をつくと、娘が駆け寄ってきた。
「ママがこれ飲んでって」
手渡されたのはスポーツドリンクだった。娘は遊びのほうが気になるらしく、すぐに友人のもとへ駆けていった。吉岡は喉が渇いていたので一気に半分ほど飲んだ。
「あま……」
思わず口をついて出た言葉は誰にも聞こえていない。妻たちが夢中で喋っている頭上には、満開の桜が咲いている。何とはなしに眺めていると、花びらが1枚、また1枚と舞い落ちていくのが見えた。

春が来るたびに吉岡が思い出すのは、むかし勤務していたオフィス近くで孤独に堂々と咲く桜。他人からすればなんてことない住宅地の桜なのかもしれないが、なぜか吉岡の印象に深く残っていた。
何年前だったか、花見の帰りに一緒になった由香里をそこに連れて行くと、桜はすでに花を散らしはじめていた。由香里は吸い込まれるようにそれを見つめる。予想したとおりだと思い声をかけると、はっとして振り向いた表情の前にまた淡い色が散った。吉岡はとてもきれいだと思ったが、ストレートに口に出すのも憚られ、どう言えばいいのかわからなくて黙ってしまった。帰りの電車では由香里と一緒なのに酔いが回ってうとうとしてしまって、ふれた体温が心地よかった。もしあのまま起きなかったらどうなっていただろう。

妻はやさしいし、娘も息子もかわいい。家族がいない生活などもはや考えられない。けれど散る桜を見るたびに、吉岡の意識はあの夜へと引き込まれていく。

(おわり)

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