春を感じる心とささやかな決意

本を読んでいると、ある一節に目がとまった。

そうだ、年々の春はおまえを必要としたではないか。あまたの星は
おまえに感じとられることを求めたのだ。
過去の日の大浪がおまえに寄せてきたではないか。または、
開かれた窓のほとりをすぎたとき、
提琴の音がおまえに身をゆだねてきたではないか。それらすべては委託だったのだ。
しかしおまえはその委託をなしとげたか。おまえはあいも変らずむなしい期待に心を散らしていたのではないか、
(リルケ「ドゥイノの悲歌」手塚富雄訳 より)

なんとなく「春」という単語に気を引かれて読んでみると、まるで他人事ではなく、自分の目をのぞき込まれ問いただされているような気分になった。そして返す言葉につまる。
むなしいとわかっていて期待をして、結局なにも手に入らなかった。そんなことに心を散らして体を消耗するくらいなら、身近にあるものや人をもっと大事にするべきだったのかもしれない。そう思っていたところだった。

***

毎年わたしは春を敏感に感じ取っていた。それなのにあまり春が好きではなかった。理由のひとつは花粉症がひどく鼻や頭が重くなるからで、もうひとつは心が不安定になるからだ。空も花も緑もあざやかで美しく、気持ちが晴れ晴れするような季節のはずなのに、不安が強くなり、落ち着かない気分にさせられる。

最初に春の気配を感じるのはたいてい2月上旬。まだまだ寒い時期だけど、ふとした瞬間に春特有のくぐもったようなやわらかい空気を感じる。そこからだんだんと落ち着かなくなってくる。どうしよう、春が来る、と思っているうちに寒さが緩んできて、生暖かい風が吹くようになる。気持ちはまったく季節に追いつかない。

たぶん不安になるのは、環境の変化が多い時期だからではないかと思う。子どものころのわたしにとって、入学式や卒業式、クラス替えや担任の交代、教室が変わって教科書も変わるというのが結構なストレスで、変化があってしばらくすると必ずといっていいほど謎の高熱(知恵熱?)を出していた。それは成長してもあまり変わらず、就職後も同じように熱を出した。その感覚がいつまでも拭えず、春の気配を感じるとともに不安感がフラッシュバックする。

それがこのところ、あまり不安を感じなくなってきたのだ。不安への対処法を知ったということもあるが、そもそもの原因である環境の変化が起きなくなってきたことが大きい。不安を感じなくなったことは良かったのだが、長年慣れ親しんだ感覚なのですこし寂しくもある。
そこでまた、冒頭の「ドゥイノの悲歌」に指摘される。

そうだ、年々の春はおまえを必要としたではないか。

不安を感じることがいいかどうかは別として、わたしは毎年毎年飽きもせず、敏感に春を感じ取ってきた。太陽高度が変わって温暖になったというだけの「春」に意味を与えたのは人びとであり、わたしだ。

今年も春がやってきた。散歩をすれば色鮮やかな花々を見かけるようになった。もうすこしすれば桜も咲きはじめるだろう。むなしい期待に焦らされることなく、いまはただ身近なものを愛そう。

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わたしもスキしたいです!
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コメント2件

「春の不安」わかるなー
HSPおばはんさん
わかってもらえてうれしいです
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