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幸せの核に近づくための自分メモ #17

◆ 15年以上住んだ部屋が、この土日でがらんとした。それはそれは、がらんとした。2台あったベッドは1台になり、黒いデスクも、革がボロボロに剥げたキャスター付きの椅子も運び出された。玄関の靴入れも、数々の鍋パを共にした赤い簡易テーブルも消えた。1人で住むにはこの部屋はけっこう広かったんだった、と思い出した。この部屋に越してきた2008年4月を思い出した。徒歩30秒のスーパーで倖田來未さんの「Moon Crying」が流れていた2008年4月を。最寄駅が開かずの踏切と共にあった2008年4月を。最寄りのコンビニのおじさんの髪がまだ黒々としていた2008年4月を。家の目の前の環状道路が今と同じく時々騒がしかった2008年4月を。今この記事を書いているのと同じテーブルに、B5のレポート用紙とテキストを広げ、スペイン語の課題をやっていた2008年4月を。

◆ 芋づる式にその後のこともいろいろ思い出された。環状道路沿いを夜中に走っていて、某ラーメン屋の前を通るといつも感じた豚骨の匂い。朝焼けとともに仮眠を開始したテスト前。自分より若い高校生キックボクサーの活躍を見て、居ても立ってもいられず部屋の中でシャドーを開始した2008年の夜。同じマンションに住むカップルと一緒に流れ星を見て小さな喜びを分かち合った2009年の屋上。少し離れたセブンイレブンで夕食の弁当を買ったら、年上のお姉さん2人組に謎に話しかけられて「今度飲もうよ」「いいですね」なんて話した2010年7月の試合前(その後めんどくさくなって結局会わなかったけれども)。乗りたかった電車が行ってしまうのを何度も道路の向かい側から見送った、もう一つの最寄駅。そういえば当時それなりに自炊していて、その自炊に使っていたフライパンも、この土日で処分したのだった。けっこう傷ついていたので。なにせ15年も住んでいるので思い出は尽きないのだけれども、部屋ががらんとすると、思い出すのは住み始めて最初の3年くらいのことばかりだった。

◆ そういう思い出に浸るのが心地よかった。心地よいのが意外だった、と言いたいところだけれども、なんか予想どおりだった。いつも〈今〉に集中するなんて言っているけれども、やっぱり懐かしいものは自動的に美しいと認識してしまうものだ。これもその時にとっての〈今〉を積み重ねたからこそなのだと、頭では分かっているけれども。

◆ それと同時に、ちょっと後ろめたさもあった。それ以降も等しく意味のある時間を積み重ねてきたはずなのに、昔のことばかり思い出して、自分は薄情なんじゃないかと。今は部屋がこの状態なのだから、部屋がこの状態に近かった頃の思い出に浸るのが正解なのだと、自分に言い聞かせた。

◆ 今、部屋の隅には大小8個の段ボール箱が積み上げられている。数日後には段ボールがもう数箱増えていて、今週末にはこの部屋はすっからかんになっている。今この記事を書いているテーブルも、CDの山も、冷蔵庫も、食器棚も、最後まで働いてくれた掃除機も、この部屋から消えている。何にも縛られないとばかりに一生に何度も引っ越す人が世の中にはたくさんいるけれども、自分にはそれは難しいと痛感する。そんな自分だからこそ味わえているこの時間の豊かさに、今はただ感謝する。

◆ 写真はこれまた2008年から使っていた14オンスのグローブ。埃を払って久しぶりに触ってみると、アンコ部分がパリパリと音を立てて、もうそれはグローブの形をした何か別の物に生まれ変わっていることを告げてくれた。キックボクシングの練習から帰ってくると、よく保冷剤にタオルを巻いて痛めた足を冷やしたものだった。その保冷剤がいい具合に融けてきたのを指で押すと、同じようなザクザクした感触だったのを思い出した。

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