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映画祭に落ちまくって来た

しかしまあ、何と言いましょうか。15年以上、映画を作って映画祭に出しまくっていると、落ちまくるんです。「まくる」から「まくる」んです。私が作っているのは短編映画なんですけど、まあ落ちましたね。これだけ落ちると、善良な人間でも、普通はジョーカーになりますよ。ダークサイドに落ちない方がおかしいですよ。

どれだけ映画祭にエントリーして来たか、どれだけ人生賭けてエントリーして来たか、みたいな話はこれまでのnoteに書いてある気がするので、今回は「落ちる」にフォーカスを当てて書いてみたいと思います。いや、「落ちる」についても、ちょいちょい書いてきた気もしますが。それだけ「落ちる」ことに思い入れがあるんです。

1本の映画につき、だいたい50〜300ぐらいの映画祭にエントリーするんですが、まずはメインの映画祭を決めます。「ワールドプレミア」と言われているもので、「世界で初めての上映をどこの映画祭にするのか?」を決める必要があります。

と言っても、決めるのは勝手なんです。「はーい!はーい!」と手を挙げるだけですから。でも、先方が「はい、平林くん。」と指してくれないとダメなんです。そういう大前提はあるとして、ワールドプレミアの映画祭を決めるんです。私は、カンヌ、ベネチア、ベルリン、ロカルノ、あたりに決めることが多いです。これらの映画祭は応募の条件として「インターナショナルプレミア」という自国以外での初上映が必要条件として書いてあり、さらに「ワールドプレミアが優先される」とも書いてあります。

だから、私は迷うこと無くこれらの映画祭にエントリーします。そして、当たり前のように落ちるんです。私は必ずこれらの大きな映画祭からエントリーして来ているので、私の作品で、それらの映画祭に決まってない作品は、落ちて来たという事でもあります。たまに上手く行くと選んでもらえるんですけど、そうそう上手くは行きません。

若い頃は、映画祭での落選を「人格否定」「全人生否定」ぐらいに思い、「映画祭なんてクソだ!」と、一発でダークサイドに落ちるぐらいに「うすはり」のハートだったのですが、たぶんトータルで2000通以上の落選メールを受け取っている私クラスになると、うすはりだったグラスも、どんどん「あつはり」なり、お陰様で今では「思いっきり床に投げつけても割れないグラス」ぐらいにはなりました。もうガラス製じゃなくて、アクリル製なのかもしれません。床で跳ねますから。

不快感のレベルで言うと、「帰りに牛乳買ってきて」というLINEが来たぐらいと言いますか、スマホのバッテリー残量が20%を切ったぐらいと言いますか、飲み会で自分が話をしている時に料理が来ちゃって、別の人の話に移っちゃったぐらいと言いますか。まあ、そのぐらい軽い感じなんです。

私は主に海外の映画祭に出しているので、メールの中にある「regret」「Unfortunetely」「not selected」という単語は、瞬時に見つけることが出来ます。0.05秒ぐらいなんじゃないでしょうか。これらの単語を見つけたら、もうメールの本文は読みません。そこには、「応募作品の数が例年より多かった」とか「プログラムが縮小されて上映出来る作品が減った」とか「あなたの次回作の成功を祈る」とか、だいたいそんな事が書かれていますね。もううんざりです。いやいや!

あと、私クラスになると、パッと見のメールの分量でも「当落」がわかります。作品が選ばれた時のメールはやたら長く、すでに大量の添付ファイルとともに送られてくる事が多いからです。

私の心は「思いっきり床に投げつけても割れないアクリル製のグラス」になってしまいましたが、やはりそれは、自分の気持の整理をずっと続けて来てしまったからだと思います。「作品が良くなかった」のではなく、「今は日本の作品の注目度が低い」とか「作品が長すぎてプログラム的に選ばれづらかった」とか「もう少し分かりやすい作りにしないと映画祭をやる都市の市民が納得しない」などなど。

などなどを、勝手に私の中で考えて、気持ちの整理をつけて来ましたが、私は知っているんです。私の作品が落とされた理由を。

「他の作品の方が良かったから」なんです。

選考される過程があり、上映できる本数が決まっているとなると、良いものから選ばれます。受験と同じですね。

「他の作品の方が良かったから」をキツい言葉で言うと「選ぶ価値が無かったから」になります。恐ろしい言い方ですね。落選のメールで「Your film has no worth screening in our film festival.」って書いてあったら、呪いの藁人形をAmazonで注文しちゃうでしょうね。いや、書いてあったかな?忘れましたけど。

0.01秒でも早く走れば勝ちとか、1点でも多く取った方が勝ちといった勝負は分かりやすいですけど、映画みたいな主観が大きく影響するものでの「勝ち負け」は怨念や嫉妬をより生みやすいものなんだと思います。「真実は何なんだ?」みたいに思ってしまいますから。

「映画は比べるものじゃない」と思えば、そういうところにエントリーしなければいいんです。でも、コンペ部門のある映画祭には断固としてエントリーしない映画監督って、あんまり聞いたことがありません。エントリーしないから知らないだけかもしれませんが。

でも錚々たる顔ぶれの映画監督の作品が並ぶカンヌ映画祭のコンペ部門に、毎年世界中の監督がエントリーするってのはすごいことだと思います。カンヌ映画祭の「格」もすごいと思いますけど、教科書に載るような監督達が、それでも「競争」に参加するんですから。ヒューマニズムな作品や人権をテーマにした作品を作る監督も「勝ちたい」んですよね。「もうワシは十分じゃよ…」と言って辞退しないわけですから。たまにジャン・リュック・ゴダールの作品がコンペ部門に入ってたりして、目を疑うことがあります。

サッカーのワールドカップにペレがまだ出ている感じと言いますか。「まだゴール前にいるのかよ!」という感じの。

話がそれましたが、落とされた時に「映画祭のクオリティが落ちたから」とか「日本作品が注目されてない」とか「あの映画祭のテイストとズレていた」みたいな気持ちの整理をつけるのは、あくまでも自分の心を穏やかにするためにはしてもいいと思いますが、次の作品に踏み出す時には「前作は選ばれる価値が無かった」と思い、より一層気持ちを入れていかないとダメかなと思っています。これは私自身の課題です。心は「うすはり」じゃなきゃダメなんです。

念の為言っておくと、あくまでも映画祭にとっての価値で、作品そのものの価値ではありません。映画祭なんて関係ない素晴らしい作品が、この世には膨大に存在していますから。

一方で、映画祭をバカにしている人たちもたくさんいますが、そこをバカにしちゃうと、作品を作り出すエネルギーが散漫になってしまう気がするんです。そこを追求していくと、「そもそも映画なんかにどんな価値があるのか?」とか「地球上にオレの作品をわかるやつはいるのか?」みたいになってしまいますので。

ここのところ、落とされることが多いので、「落とされる」について書いてみました。腹っつわ〜

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