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仕事ではない「作品」を作る、ということ。

仕事というのは、仕事の対価としてお金を貰えたり、待っている人がいるというプレッシャーもあるので、仕事をもらったのにやらない、という事はほとんどありません。

でも、誰にも頼まれてない、自分の意志だけが原動力の、仕事ではない作品作りというのは、本当に自分との戦いになります。作品を作れる人、作り続けている人と、作品が作れない人との差は、自分との戦いに勝ったか負けたかだと思います。本当にしみじみと思います。

私はずっと短編映画を作ってきました。毎年、最低でも1本作ると決めて作ってきました。仕事が尋常じゃなく忙しい時もあったりと、力の入れ方には変動がありますが、なんとかギリギリ毎年1本は作ることが出来ました。

今になって思うと、作品作りの早い段階で人を巻き込んでしまう事が、作品を完成させる秘訣なんじゃないかと思います。人を巻き込んでしまうと、作品作りが「仕事化」するので、動きが「仕事モード」になるからです。仕事化すると言っても、そこにお金などは発生しないのですが、人が待っている事でプレッシャーが発生し、サボらなくなるのです。

とは言え、これは私の場合なんだと思います。作品作りを仕事化したくない人もいるでしょうし、人を待たせてもヘッチャラな人は、人を巻き込んでもプレッシャーを感じないので、余裕でサボれますし。

それにしてもこの、人に頼まれてもない自分の作品を作る、という作業は本当にキツいものがあります。私が生まれつきのアーティスト基質ではなく、受注仕事に向いている商売人基質だからなのかもしれません。商売人基質なので、仕事はちゃんとやっているという自負はありますが、2日も3日も徹夜してまで自分の作品作りをするかというと、そこまでしません。だから、人に助けられながら作品を作ってきました。

そして重要なのは、アーティスト基質の人がアートの歴史を作ってきたのではなく、アーティスト基質だろうが商売人基質だろうが関係なく、作品を作ってきた人がアートの歴史を作ってきたということです。アウトプットされた作品だけが評価の対象になり、歴史を作っているんです。

私はたまに思うのですが、「作品を作ってない天才」が、世界には無数にいるんだろうなと。現代だけではなく、人類の歴史でもいたと思います。でも、世の中を動かしてきたのは作品をアウトプットしてきた人たちです。いくら才能があっても、素晴らしい事を考えていても、作品化しないと「無」と同じです。

一方で、「作品を作りたいのに作れない」という気持ちもわかります。才能があり、繊細な人ほどそうかもしれません。やっぱり作品を作って世の中に出すのは怖いことです。形が残ってしまうんです。証拠と言ってもいいかもしれません。良い評価が得られればいいのですが、評価が悪くても残ってしまいます。そもそも、残るとか残らないとかの前に、人に評価されることが本当に怖いんです。

だから、みんながみんな作品を作る必要は無いと思います。心に大きな傷を残す可能性もありますし、大きな傷を残す可能性の方が高いからです。アウトプットされたほとんどの作品は評価されません。私たちが目にしている「作品」と呼ばれているものは、一握りの勝ち残った、生き残った作品なんです。

と言いながらです。私もたくさんの作品を作ってきて、良い評価をされなかった作品もたくさんあるのですが、心に傷を残し、へこたれてしまうことはありませんでした。

仲間がいたからです。

とかそういう事では無く、麻痺してしまうからです。麻痺というのは、人生を図太く生きていくために、本当に優れた効果だなと思います。ダメだと言われても、心が折れなくなるんです。悲しいことに、良い評価をしてもらっても麻痺してしまって、それほど嬉しくなくなりますが。

だから、駄作だろうが何だろうが、どんどん作品を作って出せばいいんです。そして、ダメな評価だったとしても、作り続ければいいんです。そのうち麻痺してくるので。

「作り続ける」ということが本当に大事なことなんです。

少しでも「作家」に近づきたいなら、作り続けるしか無いんです。作家はひとつの作品で評価されているのではなく「作品群」で評価され、その存在を認められることになります。

「作品群」なんです。

作品を作り続けた先に見える風景は、作り続けた人しか見ることが出来ません。短編映画を20本作ってきた私は、これから長編映画で「作品群」を作ろうと思っています。怖いなあ。

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