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「ひらぎの性別はひらぎ」

私の友人に、

「ひらぎだから」
「ひらぎらしい」
「ひらぎの性別はひらぎ」

と言ってくれる子がいる。

なんかこの、

無条件に受け入れらている感じ
自分を見てくれている感じ

は、何ものにも変えられない安心感がある。
親の愛情とはまた違った安心感。
大げさにいうと、個の存在を認められているような。

・・・

今ではジェンダーレスという言葉があるけど、
私は小学生の頃から好んで男の子の服を着ていた。
今でもメンズ服に好みのものがあると着ている。

その頃から
カテゴライズされたものから選ぶのではなくて、
単純に、自分のいいと思うものを選んでいた。
服屋を隅から隅まで歩いて、自分の好きな服を選ぶ。

別におしゃれではないし、シンプルだけど、
自分の好きな服を着ている。
決定権は自分にある。

そして私の母は、それを「ダメ」とは言わなかった。
(かわいい服を着て欲しそうにはしていたけど)

・・・

かくいう私も、昔は

圧倒的多数派の無意識な言葉

が怖かった。

最初から決められているのかな?
と感じる言葉は、今でも苦手。

「女の子なんだから、スカートを履きなさい」
とか。

話す前から決まっているなら、自分の声は届かない。
と思っていた時期もある。

でも今も、決定権は自分にある。

・・・

そんな風に振り返るのも、先日、初めて会った方に

「自己肯定感 MAX の顔をしている」

と言われたから。

学生時代、
「みんなが普通にしていることが、どうして自分はできないのか」
と思っていた私は、自他共にみて、自己肯定感マイナスだったと思う。

社会的マイノリティであることを薄々感じ、
(あぁ、生きづらい)と思っていた。

それが、
「自己肯定感 MAX の顔をしている」と言われるようになったのは、
自分がマイナスに見ていたことを、肯定も否定もなく

「ひらぎらしい」

と言ってくれる人たちに出会えたからだと思う。

そして、
久しぶりにその友たちと会う予定があるので、
めちゃくちゃ嬉しくなっているのだった。


hiragi ayako
twitter : @____hrg



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