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私はこうして翻訳者になりました

ここ数日、翻訳未経験者や初心者に翻訳実績を詐称するように指導する講座を開いていた人がいたことが、ツイッター上で話題になり、通翻訳クラスタの間でそれぞれの方々がどうやって通翻訳業界に参入していったかについて経験談をツイートしています。

今回のnoteでは、私の経験談について書いてみました。

私は2006年から翻訳実務の世界に入り、今年で14年目です。

サイマル・アカデミーでのスクール体験

翻訳や通訳の世界では、スクールに通うことが有用かどうかが議論になることがありますが、私自身はスクールに通って翻訳を学んだ経験があり、そこでの学びはとても役に立っています。

具体的には、東京のサイマル・アカデミーの産業翻訳日英翻訳者養成コースを受講し、基礎科に1年、本科に3年半在籍しました。授業時間は、基礎科は当時、虎ノ門校で土曜日の午前中に行われており、本科は新宿校で金曜日の夕方から夜にかけての時間帯でした。私が基礎科に在籍していた1年間はニューヨーク出身の女性講師が担当しており、本科はカリフォルニア出身の男性講師が担当でした。私は本科では行政分野を専攻しました。

基礎科も本科も授業の進め方には大きな違いはありませんでした。基本的に、授業の中で新聞や雑誌の記事、学期によっては日本語の書籍の中の章の一部などを教材にして、前の週に課題となっていた部分を英語に訳してきたものについて、受講者同士でディスカッションし、そこにネイティブ講師も加わり、質疑応答や議論を交わしていくというスタイルです。また、授業の後半で、やはり新聞や雑誌の記事を題材に、サイト・トランスレーションをし、受講生、講師が訳文について議論を交わすという流れです。

基礎科は全て一般的な内容について扱うコースで、本科からは、私が在籍していた頃は、行政、金融、医学(学期によって医学がITに変更されるといった微妙な変動があった記憶があります)という三つの専門コースから一つの分野を選択するという形でした。

私は中学生の頃から翻訳や通訳の世界に憧れを抱いており、サイマル・アカデミーにもずっと憧れていたので、そのサイマルで翻訳を学ぶことができた4年半は私にとって非常に充実した時間でした。

入学前のレベルチェック・テストに合格した後に行われたプログラム・コーディネーターの方との面談の中で、「平井さんが受講する日英翻訳のクラスは講師陣が特に充実しているのでお薦めです」と言われたのを覚えていますが、実際に講座を受講して、その通りだったと思います。

女性講師も男性講師も翻訳の実務経験豊富でキャリアのある人たちで、特にカリフォルニア出身の男性講師は政府機関の文書の英訳を多く手掛けている人で、学ぶものがたくさんありました。

私はサイマルに2006年の9月まで在籍し、そこでサイマルに行くのを終わりにしました。その理由は、そこまでの4年半で翻訳の技術的なものやノウハウについて自分で納得できるものを身につけたという感触があり、これからは実務経験を積んでいきたいと思ったからです。

翻訳実務の世界へ

私は2006年から実務の世界に入ったと書きましたが、2005年の途中から翻訳関係の雑誌の求人欄やネットの翻訳求人サイトを見て、求人への応募を開始しました。

その段階では、まだ翻訳実務の経験はゼロでした。その時に、私が応募の履歴書に書いた主なアピール内容は次のようなものでした。

<翻訳学習歴など>
2002年4月~2003年3月:サイマル・アカデミー翻訳者養成産業翻訳日英基礎科在籍
2003年4月~2006年9月:サイマル・アカデミー翻訳者養成産業翻訳日英本科在籍(行政専攻)
<上記のサイマル・アカデミーでの主な翻訳文書>
元国連難民高等弁務官緒方貞子女史のインタビュー集、元野村證券社員大小原公隆氏の内部告発手記、国民生活白書、ゴルフ会員権関連の雑誌記事、防衛白書、『週刊エコノミスト』誌掲載のバナナプロジェクト関連の記事、ペイオフ解禁関連のブックレット、日本プロ野球再編関連の雑誌記事、公務員白書、2007年問題関連の雑誌記事、海上保安レポート、『週刊東洋経済』誌掲載の敗戦60年特集記事、男女共同参画白書、雑誌『をちこち』の日本の食文化関連記事
これら以外にも、様々な分野の新聞・雑誌記事の翻訳、海外の新聞・雑誌記事の要約も行っています。
<翻訳関連受賞歴など>
2004年5月:英字新聞The Daily Yomiuriの紙上日英翻訳コンテストTesting Translationで佳作入選
2005年10月:英字新聞The Daily Yomiuriの紙上日英翻訳コンテストTesting Translationで優秀賞受賞

このような内容をアピール材料にしながら翻訳の求人に応募し、トライアルを受けていきました。

こういう中で、今となっては記憶があまり確かではない部分もありますが、書類選考で落ちてしまう会社もあれば、トライアルに漕ぎ着けて合格できる会社もありました。

初めての翻訳実務

特に記憶に残っているのは、2005年の12月にある翻訳求人に関するサイトに、未経験者でも可だと書かれている求人を見つけたことです。そこには、金額的には低いけれど、それでもよければ連絡をもらえればすぐに仕事を依頼すると書かれていました。

当時の私は、まだ実務経験がなく、少しでも実務経験を積んで実績を作りたいと思っていたので、すぐに応募しました。(この求人先は、個人経営の翻訳会社で、トライアルはありませんでした。)

すると、まもなくこの求人を出した会社から返事があり、和訳の案件を引き受けました。内容は、ある国際会議の参加者向けのツアーに関する文書で、現地の観光情報などが書かれたものだったのを覚えています。

当時の私にとっては、この案件が翻訳者として初めての仕事で、まだ自分がどのくらいの時間でどのくらいの分量をこなすことができるかの経験値がなかったので、初めての仕事をできる喜びと同時に、納期に間に合わせることができるだろうかという不安もありました。が、無事納期までに仕上げて、納品しました。

この後、この会社と数回仕事をしたのを覚えています。

もちろん、この案件は今の私から見れば翻訳料金が低く、安く買いたたかれていたのはわかりますが、当時の私にとっては、金額を選ぶよりも、まずは一つでも多くの案件を経験し、実務経験を増やすことを優先していたので、その戦略的意図に基づいて案件を引き受けました。

学術文書の日英翻訳案件ゲット

そんな中でも、ネットで翻訳関係の求人情報や翻訳会社のサイトを見て、気になる求人に応募することを続けていきました。そこで、2006年の初め頃だったと思いますが、ある翻訳会社に応募し(経験よりも実力重視のような会社だった記憶があります)、トライアルを受けると、合格することができ、この会社から3月頃に初めての案件の打診を受けました。

この会社とは早く仕事ができればいいなと思っていたので、その時にはとても嬉しかったのを覚えています。案件の内容は、歴史関連の学術調査について書かれた学術文書の英訳でした。

私は学術系の分野に興味があり、この案件はとてもやり甲斐を感じ、訳していて楽しかったのを覚えています。この仕事がきっかけで、この翻訳会社との関係ができ、以後はこの会社ととても良好な関係で仕事ができるようになりました。

この会社では、日本人翻訳者が英訳した文書をアメリカ在住のネイティブ編集者が編集し、毎回そのフィードバックをもらうことができたので、実際の実務を通じてとても良い勉強になりました。ネイティブ編集者の編集能力もとても高く、尊敬できると感じました。

こういうふうに少しずつではありますが、実務をこなしながら翻訳求人に応募することを続けていくうちに、他にも学術文書の翻訳を扱っている翻訳会社のトライアルに合格し、仕事をさせてもらえるようになり、ゆっくりではありますが、一歩一歩前進していきました。

この最初の年に、私にとっては二つの出来事が特に鮮明に記憶として残っています。

2006年サッカーW杯ドイツ大会の翻訳プロジェクト

一つ目は、2006年サッカーW杯ドイツ大会の翻訳プロジェクトへの参加です。2006年のたぶん4月頃だったと思いますが、ある翻訳求人サイトにサッカーW杯の翻訳プロジェクトの翻訳者募集の情報が掲載されており、それを見た時、とても興味があり、是非応募したいと思い、応募しました。

すると、幸運にもトライアルに合格することができ、6月から実際のサッカーW杯の翻訳プロジェクトに参加することができました。海外の翻訳会社がプロジェクトをコーディネートし、アメリカとヨーロッパをつないで、スカイプのチャットでコミュニケーションをとりながら翻訳を進めていきました。

7月に無事このサッカーW杯の翻訳プロジェクトを終え、翻訳一年目の私にとっては充実感のあるプロジェクトでした。

ミクシイで先輩翻訳者と知り合いになり仕事ゲット

この同じ年に経験した二つ目の出来事は、ミクシイを通じて、ある女性翻訳者の方から仕事の打診をいただくことができたことです。

2006年の2月頃に、以前サイマルの基礎科の授業で一緒だった人からミクシイに招待していただきました。当時、私はミクシイが何なのか最初は知らなかったのですが、使っていくうちに、その面白さがわかり、ハマりました。

この年の5月だったと思いますが、件の女性翻訳者の方が私のミクシイのページを見て、ちょっと手伝ってもらいたい仕事があるというメッセージをくれました。そこで電話番号を交換して、後で電話で話をしたのを覚えています。

すると、この人は、私のミクシイのページを見て、この人は翻訳の仕事を欲しがっているような雰囲気だなと感じ、誠実そうだという印象を受けたので、メッセージを送ったとのことでした。

この女性翻訳者の方(仮名A子さん)は、当時、ゲーム関係の翻訳をしており、実務歴が約7年でした。その当時は、アメリカ人の旦那さんがいて、神奈川県に住んでいました。そして、一度詳しい話をしたいので、一度会おうということになって、5月頃だったと思いますが、スターバックスの新宿サザンテラス店で会って、いろいろと話をしました。(この当時、私はまだサイマルに通っていて、サイマルの授業のある日にアポを入れました。)

会って話をした時の第一印象は、チャキチャキした姉御風で、声や醸し出す雰囲気が倖田來未という感じでした。

これがきっかけで、この人との関係ができ、6月にゲーム関係会社の関連施設でプロジェクトの打ち合わせをしたのを覚えています。その後、このプロジェクトに紆余曲折がありましたが、詳しいことは省きたいと思います。

こんな風にして、A子さんとの仕事のつながりができ、何回か一緒に仕事させていただきました。当時、私にとってはゲーム関連のプロジェクトというのは初めての経験であり、私が和訳した文書についてA子さんがフィードバックしてくれたのを覚えています。仕事に誘ってくれた上にご丁寧にフィードバックまでしてくれて、今考えても、本当に助けになっていただいたありがたい経験として思い出に残っています。

ただ、このA子さんは、2007年にプライベートで生まれて間もなく子供を亡くすという悲劇を経験し、たぶんそれが影響していると思いますが、日本を離れて、旦那さんの母国であるアメリカに移住しました。

その後、アメリカで再び出産しましたが、その数年後に離婚しました。今年に入って、ネットでA子さんのサイトを発見し、そこに今はある米企業の連絡部門の責任者をしていると書かれていました。

A子さんの余談が入ってしまいましたが、以上が私がどうやって翻訳実務の世界に入っていったかの簡単な経験談です。

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