「勝利を目指す」ことと「上手である」ことは違う

最近、というわけでもないのですがTLで定期的にライト勢(エンジョイ勢)とガチ勢という話を目にします。

ガチ勢とは勝つことに最大の重点を置いてゲームをする人たち、というところでしょうか。

そういう人たちの存在がライト勢からするとときに煩わしく感じられる、というのは理解できることです。

麻雀の楽しみ方は多様です。
三色を作れて嬉しい、という気持ちはどんなに麻雀が上手い人でも持っているでしょうし(私もあります)、そこにスポットライトを当てた楽しみ方もあって然るべきなのかもしれません。

ただその上で、「ガチ勢」として、麻雀を題材としたコンテンツで仕事をさせていただいてる者として、1つだけ言いたいことがあります。

それは麻雀を「勝ち負けを決めるゲーム」であると考えた場合「勝ちにこだわる」ことをしなければゲームとして成立しない点です

ポイントとなるのは麻雀が4人で行う競技であるというところ。

麻雀での選択は、必ず誰かに対して有利に働いたり不利に働いたりします。

これが野球やテニスなど2人(2チーム)で争うゲームである場合、基本的に自分に有利なこと、例えば得点を入れるということは、相手にとっては一方的に損なことです。

しかし麻雀では自分がAさんから出和了ることが、Bさんにとっては(ときにAさんにさえ)得である、という状況が頻出します。

これがどういうことか。

それは片八百長が非常に容易に行えるゲームである、ということなのです。

自分に軽いテンパイが入りました。そのまま和了ってしまう人も、一度テンパイを崩して高い手を目指す(和了率は当然下がる)人も両方いるような手だとしましょう。

このとき、「いつもは高い手にするのが好みだけど嫌いなAさんの親だからさくっと和了ってしまおう」ということが出来るのが麻雀というゲームなのです。私はこんな人と麻雀することを「楽しい」とは感じません。

もっと極端なことを言えば見逃しです。仲の良いBさんから出た和了牌を見逃しても基本的にバレることはないし、バレたとしても「もっと高い手にしたかったから」とか「ツモった方がたくさん祝儀(があるルールだとして)が貰えるから」とか適当な言い訳はいくらでも出来ます。

でも、こんなことが起きたとして、片八百長と決めつけることもできません。その人からしたら本当に高い手を和了りたかったのかもしれない。

その境界線はどこにあるのでしょうか?

私はそれが「勝ちを目指した選択かどうか」だと思っています。

自分が自分の勝ちを目指した結果、Aさんが有利になろうが不利になろうがそれは知ったことではありません。

よく強いプレイヤー同士の力量を表現するフレーズとして「打牌で会話をしている」と言います。

もしくは「ネット麻雀の画面越しではなく、対面して駆け引きを楽しむのが麻雀の醍醐味だ」という人がいます。

4人での楽しい卓上での会話、エキサイティングな駆け引き、こういった麻雀の魅力を楽しむ為には「全員が勝ちにこだわる」ことが必要なのです。

もちろん、先述の見逃しのようなことをする人はそうそういません。そんな屁理屈押し付けられても困る、と思われる人もいるかもしれませんね。

けれど競技(これはいわゆる競技麻雀という意味ではなく、勝ち負けを競うゲームという意味なのでフリー麻雀やネット麻雀も含みます)としての麻雀を愛してしまった人間として、競技性を蔑ろにする楽しみ方はできないのです。

ただ注意したいのは「上手になれ」「正しいプレイが出来ないのはダメだ」と言っているわけではないし、そういうことを言う人を擁護するわけではないということ。

先ほどの例で言えば、どう考えても見逃しが損な状況であっても、その人が自分が勝つ為に高い手への手替りを待つ方が良いと判断したならそれで良いということです。

例えるならライト勢とガチ勢が野球で対戦しているときに「わざと相手の打ちやすい球を投げてはいけない」というのが私の言っていることです。それをされたらゲームが成立しませんし、それは草野球だろうが公園で子供がやる三角ベースだろうが本質は同じだと思っています。

でも「上手くなければいけない」というのは「150kmのストレートを投げろ!」と言っているようなものです。それはおかしいですよね。

仕事、家庭、他の趣味など様々なものに限られたリソースを割り振りするというのが人生であり、その中での麻雀の位置付けは人によって違います。

だから上手でないことは何も恥じることではないし、他人に上手なプレイを強要したり、それができないことを馬鹿にするのは愚かとしか言いようがありません。

ただそれでも、三色を和了ることが最大の楽しみであり、それを(本人は勝つための最適解ではないと思いつつ)追求したいという人もいるでしょう。

本当の理想はそう言った人たちの棲み分けができることなのかもしれません。

ただ、そのためにも、我々ガチ勢の言う「勝つための選択にこだわれ」というのが、弱者を排除したいという思想ではなく、麻雀という「4人で楽しむものであるというゲーム性」を尊重した思想であるということを知って頂ければ嬉しいと思いこの記事を書きました。

そういえば、麻雀で生きていきたい、と思ったとき、例えば健康麻雀の講師をするという選択もありました。

もちろん、裾野を広げるという意味で、間違いなくそれは素晴らしい仕事です。

ただ私の愛した麻雀は競技としての麻雀でした。そしてそれを成立させる「勝ちにこだわる」という思想は、ときにガチ勢に分類されるような人たちの間でもまだ浸透していなかったりします。

モロひっかけが汚いという発想やメンバー規制という風習があるのがその証左です。

なので、麻雀そのものの裾野を広げる活動は他の偉大な先生方にお任せするとして、まずは麻雀というゲームのゲーム性を正しく広め、「勝ち負けを競う」ことを楽しむ人を増やそう、そう思い今は戦術論等のコンテンツを作っています。

今後の活動を通して「ガチをエンジョイできる人」を少しでも増やしていけるよう努力していきたいと思います。

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