閉まる煙草屋、彷徨えるシンガー

今年が終わるということで、ここ最近のよしなしことを話しながらなんとかうまく今年の簡単なまとめに繋げていくことができれば、と書き始めますが、いかに。

近所の煙草屋が店の前の自販機に張り紙を出していて、読んでみるとちょうど今日で閉店するとのこと。この煙草屋は店の前に自販機を出しているのがよかったし、広めの喫煙スペースを設けているのもよかった。今うちの近所に全部で三箇所ある喫煙所のうち、唯一ここだけが日当たりが良くて冬はとても助かっていたのだけれども、喫煙スペースごとなくなってしまうのかしら。
ここのお店がなぜ閉店するのか、事情はわからないけれども、将来もしおれにお金が余るようなことがあったら煙草屋をやりたいな、と思った。自販機と、できれば東屋のような屋根付きの喫煙スペースを付けたい。昔から自分のための理想的な喫煙スペースを持ちたいという夢はあったし、それを道行く人や近所の人にも共有してもらえたら、とも思ってた。夢は煙草屋のじじいか。うん、まあ。うーん。

ここ数年、飲食店や喫茶店の喫煙席が勢いよく死滅しましたね。ガラス張りのエッチなお風呂みたいな喫煙席、あれは"死んだほうの喫煙席"です。あんなのは疲れ切って乗車した関東から関西まで2500円でいける夜行バスで、暖房がやたら強くて息苦しい上にさらに運悪く隣で大きなおっさんがすごいいびきをかいている時、ぐらいの環境です。夜行バスにももう何年も乗ってないけど。

それで寒くなってきてからおれが日中の時間をゆっくり過ごすのはもっぱら駅前のルノアールです。ルノアールは(全店舗がそうなのかはちょっとわからないけれど)全席が喫煙可。広めの店内ぜんぶが喫煙可であることで煙の逃げ場にも余裕があり、非常に快適な喫煙環境を実現。カウンター席はノートPCをカタカタカタカタする方々、ソファ席はどう考えても怪しい投資案件の商談をする方々にご利用いただいています。あと借金の取り立ての現場に居合わせたこともある。都会のルノアールはまじで金のことを考えている奴しかいなくて、それが妙に居心地がいい。歌詞を書こうと入った喫茶店で他の客が全員テーブルの脇にギターケースを置いて歌詞のノートを広げてるフォークシンガーだったら地獄だろ。

今日もルノアールで考えごとをしていたらふと突然、ここのところ1,2ヶ月悩んでいたことの解決への糸口になりそうな気づきがあった。本当に脈絡なく、ある瞬間に突然俯瞰ができて、自分が頑張って前進しようとしていた道のり自体が、実はくだらない価値観で迷い込んでいた狭い道のようなものに過ぎないんじゃないか、と明るい気分で納得できるということが時々ありますね。もちろんその気づきによってその瞬間、それまでの全てが報われるとか、それ以降二度と思い悩むことがなくなるとか、そんなことはなかなかないのだけれど、少なくともある期間に考え続けたことにひとまず区切りを付けてみようと思えるタイミング。それもまたいずれ将来の自分によってくだらないと切り捨てられたり、単に忘れられたり、さらにそれから再び思い出されて「これは新たな発見だ!」と考えられたりするのだとしても。実際、自分で何年も前のブログを読み返していて、この頃のほうがまだ幾分か賢かったなと途方にくれることも増えてきています。ある面での自分の衰えを素直に認められるようになってきたのを成長したと思うこともできるのかもしれないし、イヤイヤ、衰えは衰えであり後退だろバカか死ね、死のう、という気分になったりもする。総じてまっすぐに落ち込むということは減った、というかほぼなくなったように思いますが。

家族に対しては美学の及ばない義務があり、それは喜ばしい義務だと享受するけれども、表現活動によって自分の内面と不特定多数の外の世界の人々を繋ごうとする別の回路は、きちんと整備しておきたいと改めて思っています。その回路の上でのみ展開され醸される芸術表現を、それは全く身を賭していないおままごとだと、例えば10代の頃のおれなら糾弾する可能性もあるけれども。

音楽を始めた高校生の頃から15年くらい、前進したり後退したり停滞や逃避を繰り返しながら、考えていることや目指しているもののおおもとにはそんなに変化がないな、と自分で感じることに対しても、最近はむしろそれが好いことだと捉えているように思う。仮にその事実がそのテーマの価値を証明していたのだとすれば、それに値するテーマに早い段階で気付けていたことを誇らしく思うし、15年経った今まだそのテーマに組み合っているというのは、まだ自分も何か大きなものから見放されたわけではないということの表れなのじゃないかと思えるし。もちろん、何も成長していないことの証左ですということもできる。

この一年はとにもかくにもこれまで10数年続けてきたよしむらひらくとしての音楽活動を休む、少なくとも積極的なライブ活動と、義務感のある創作からきっちりと距離を取って過ごしてみる、ということをした一年でした。これはこの一年のことに限ったことではなく、ある期間のことを総括して短い文章にまとめるというのは簡単なことではないので適当なところで一旦切り上げます。休みはじめに感じたことですが、思ったよりもお休みをすることをシンプルに否定的に受け取られているらしい意見のほうを多くもらってすこし戸惑いました。唯一といって言っていいぐらいに、この休止がそのあとの表現の成長に有効だろうという希望を共有してくれているのらしい言葉をくれたのが、普段おれを褒める言葉をまず口に出さない母親だったというのはちょっとおもしろかった。

身内との関係性というところでもやっぱり多少影響は出ていて(よしむらバンドチームに限ってはそれでも奇跡的な変わらなさだと思うけど)、おれは最高なチームを作って最高なやつらに周りでゆったりわいわいしてもらう、ということを最重要項目のひとつにおいているので、例えばその身内からおれのダラダラしたやり方を非難されたりバカにされるようなことがあっても、ゆったりした時間を守ることのほうを選択してしまうということがある。このやり方でしか守れなかった、他の現場にはそうそうないはずの空気があるだろう、という主張は虚しく空を切ることが予見されて黙ったまままだ頑として動かず、という姿勢がいい加減愛想を尽かされる要因になることもこの先あるだろうとは思う。できることなら全部守ったまま、元気よく前進している勢いを誰もが感じられるような形を作っていきたい、けれども、うむ、といった感じ。

来年はどうなっていくのか?これまで生きて考えてきたことすべてが身を結んでいくような、すくなくとも人生の中盤後半に向けてそんな形を強く期待できるようなスタートを切れたらいいなと思っています。毎度、文章がぐちゃっとして終わる。よいお年を。

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