逗子のパーティーにいった日・3

地図アプリで見るとパーティー会場はそろそろこの辺だな、というあたりでOさんと会った。パーティーは昼夜二部構成だったようで、Oさんはその昼の部に招待されていて、これから帰るところとのことだった。Oさんは前述のよしむらひらく活動10周年企画への寄稿に個人的な思い出のある曲として「ジュテーム」という曲を挙げてくれていたのだけれど、この選曲からもわかるように随分前からよしむらひらくの音楽を聞いてくれていて、またおれのほうも共通の知人が多数いたためにその存在はずっと認識していた。ツイッター上ではやりとりもしていて、なんだか昔からの馴染みのように感じる相手ではあるけれど、実際に直接会って話したことはほんの数回、それもじっくり腰を落ち着けて話をするというのではなかった、という不思議な関係である。想像でしかないけれど恐らくOさんに対して、おれと同じように顔を合わせたことのあまりないまま不思議に惹きつけられて存在を大きく感じている人は多いのではないかと思う。フォーマットとして表現者だという見られ方を敢えて避けるようにしながら、思想の切れ味を発揮し続けるそのツイッターライディングのテクニックで、フォロワーの数も多い、いわゆるツイッタラーという身分を構築するのに成功している人。人を騙すということを恐らく忌避していて、自分の目で見たものや自分の頭で考えたこと以外は一切信じないという姿勢でいながら、感動させられたことに対しては子供のように喜ぶのを隠さない、本当に美しい生き方を表している人だと思う。Oさんがキュレートし(そして恐らくすぐに飽きて更新の止まっている)たウェブサイトは、Oさんがそれをやろうと思えばできるのじゃないかとおもうのだけれど、知名度のある人を誘い入れて「それっぽく」するということをせず、それがつまり何なのか、をわかりやすく説明されることを回避しているように見える。その考え方や目指すところは、おれが合唱団をやっている理由に近いものがあるのじゃないかなと、勝手に親近感を持っている。

Oさんが推してくれたジュテームという曲を作ったのは2007年の初夏、おれがちょうど20歳になった頃。この頃おれが月に一度かかさずライブに通っていたウイリアムというバンドがある。流通盤も何枚もあるはずのウイリアムの音源はサブスク登録されておらず、ハードディスクの中からデータを引っ張り出して聴いていると、当時のことを色々と思い出し、また思い出すことによって随分と自分の考え方やものごとに対する感じ方が変わったということを認識する。おれがこれまで観てきたライブで感動した記憶のトップ3に、この頃のウイリアムのライブが2つはランクインするはずだと思う。それは当然おれが20歳であった(嗚呼、嗚呼)ということも大きい要因になるのに違いはないはずだけれど、それがウイリアムでなかったら代わりに別のバンドのライブが同じ熱さで記憶に残っていたかと考えるとそれはあり得ないと信じられる。

高校生の頃にメレンゲ、フジファブリックと並んで聴いていた残像カフェのサポートをしていた柳沢さん(ウイリアムは柳沢さんのソロプロジェクト)とは、同じく彼がサポートしていた不世出の天才nojicoさんのバンドとの対バンで知り合った。それは2005年、高校三年の秋だったはず。芋づる式にいくらでも思い出と共に最高のミュージシャンの名前をいくらでも挙げられそう。

大学はサボり続け、コンビニで夜勤のアルバイトをし、自転車や原付で西東京じゅうを毎夜走り回って音楽を聴いていた、憂鬱と興奮状態の波は激しかったからハッピーな生活だったとは言えないけれど、あの頃のことは掛け値無しに最高だったと言えると思う。

くるり佐藤さんのやっていたウェブ連載でデモテープを紹介されているのを見てよしむらひらくのことを知った、という20代前半のミュージシャンとつい先日立ち話をする機会があった。彼から今のおれがどのように見えるかはわからない、ただの冷え性のおっさんということもありえる。忘年会で西田から飛ばされた檄のことがちらついた。今こうして書いている、逗子のパーティーに絡めてこれまでの音楽活動と生活を振り返る記録を書き終えたら、それでひとまずの区切りとして振り返るのはしばらく意識的にやめようと思っている。

Oさんはジュテームを推してくれた寄稿を、10年後の自分がこの曲をどのような気持ちで聞くか、という疑問符を置いて締めくくっている。思い出を引っ張り出す契機にしかならないものだと、おれは自分の曲を自分で貶めているところがあるのかもしれないと思わされた。

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