暴力と理解することについて、大江健三郎「鎖につながれたる魂をして」を読みながら考える

まず、この文章はスタジオローサウェブサイト内に準備中のコラムページとある程度連動するものとして書いています。公開の際には是非そちらと併せて読んでみてもらえたらと思います。

それから、レビューというものに二種類があるとして、この文章は「対象の作品を読んでからでないと楽しめない」ほうの内容のものになると思います。「鎖につながれてる魂をして」を既に読んだ人に向けて書くつもりで、敢えて作品からの直接の引用はしないでおこうと思います。この作品は文庫版で出ている「新しい人よ目覚めよ」という連作短編集に入っています(ちなみにおれの手元のこの本の背表紙には某古書量販店の¥105のシールが貼られている)。その中の「鎖に〜」だけなら活字を読むのが早い人でなくても1〜2時間あればじっくり読めると思いますが、この本全体が1つの長編とでも言うべき連なりをした作品集なので、どうせ読むなら是非一冊を読み通してみていただけたらと思います(この中に入ってる作品だと「蚤の幽霊」というのがいちばんパカっとしてて好き)。大江健三郎の本を読んだことがないという人にこの作家の一冊目として勧めるにもまあ、アリかナシかでいえばアリだと思うし、世の中に多くいるはずの大江嫌いの方にもむしろ是非とも読んでみてもらいたい本です。例えばおれにも三島由紀夫の作品から個人的に学ぶことが絶対にないとはまず言えないしね。

この本をおれが初めて読んだのはいつか覚えていないけれど多分20代のはじめごろで、それ以降人生で一番多い回数読み返している本になると思います。にも関わらず今回レビューを書くつもりで慎重に読んでみるとその作品の構造と、把握しておくべき背景の複雑さに参ってしまいました。一人で勝手に読んで楽しむ分にはただ流れる水に差した手に引っかかった情報だけをすくい上げて感動していればいいのでしょうが、レビューという形で他人の作品に関して何か話すとなると、やはりある程度責任を感じながらあたりたいと思うので。

障害のある息子との生活を舞台にする/ウィリアムブレイクの詩を引く、という2つの約束のうえで、各作品ごとのテーマを浮かび上がらせていく、という短編集なわけですが、「鎖に〜」に限ってみても導入部分から沖縄施政権返還運動家が憲法パンフレットがアメリカ独立宣言でジョージ3世が発狂してナポレオンに期待して幻滅して、と始まっていくので、高校入試以降社会科関連の知識が微塵も増えていない=減っているおれとしては手落ちなく読み進めることがまずまずの慎重さを要するものでした。この作品にレアリアとして出てくる社会的背景については、あらゆる面でおれより正確に読み取る人のほうが多いと思うので、不要どころか恥を晒すことになりかねない前置きは飛ばすとして、この作品からおれが個人的に考える材料をもらったと強く感じているのは、「暴力」というものについて。

まずはこの作品の内容を、「暴力」というテーマに絞って簡単に整理してみます。
作品のなかで、いくつもの「抑圧」と「暴力」の表現が重ねられていきます。

A 抗いようのない相手からの暴力と抑圧。

A①18世紀のイギリスの詩人が、庭に侵入した兵士を力づくで追い出し、裁判にかけられる
A②二次大戦中に、作者の父親が、知事を先導して視察にやってきた警察署長からぞんざいな扱いを受ける
A③作者自宅への無言電話と郵便による攻撃
A④障害児である作者の息子が学生運動過激派によって誘拐される

B そして、それに対して仕返しをやり遂げることなく蓄積されていく(主に肉体的な)暴力の内圧の表現。

B①詩人は無罪判決を得るも、以降政治的に沈黙し、作品はより内向的に、難解になっていく
B②父親は作業用の鉈に手をかけたまま、無理な要求に応えて力仕事の実演をやり遂げ、知事と警察署長は強権的な態度のままその場を後にする。父親は翌年(終戦の前年)憤死する
B③不眠症の対策にウェイトトレーニングをしている作者が、深夜にやってきてインターフォンに議論を仕掛け続ける相手を追いやろうとしたところへ、前後から悲鳴がする。逃げていく相手のものと、窓から見ていた妻のもの
B④誘拐犯の仲間からの電話に激昂して飛び出していく作者、犯人はとうに姿をくらませている

話をするために簡単に整理はしてみましたが、本来は当然1つの文章作品を要約することなどそれこそ暴力的な行為だということは理解しています、と念のため断っておきます。
敬愛する詩人/族長としての威厳を持っていたはずの父親/自分自身/障害のある息子の四人の分身のような主人公それぞれに降りかかってくる、権力や、正体を隠した人間からの攻撃に対して、それぞれ有効な報復は成し遂げられない。そうして蓄積していく悲しみと怒り、遂げられてはいけない暴力的な報復の予感を描き続けながら、最後には息子が、年月を経て電話をかけてきた誘拐犯に対して渾身の怒りの言葉をぶつけて電話を叩きつけるように切った(ここで作者の妻が、息子が何年も前の誘拐事件について語ることを頑なに拒んできたのに、あの事件と犯人を覚えていたことについて発した言葉を、覚えていることで怒ることができるのかと驚きを表したようにも作者が受け取った、という表現がとても印象的です)、そのあとの発言によって全てが報われるようにさえ感じる。我々はこのようにいきていくほかないのだ、と前向きな気分をくれるのが、もっとも無力だとされていたはずの障害児である息子だった、という結び。大きく分けた4つの抑圧と、それに対する暴力の発露の予感に対して、それぞれ詩人の妻/作者の母親/作者の妻の反応が象徴的に描かれ対比させられてもいる。

抑圧と暴力について、という視点で整理しながら読むとこんな風な筋だと言えると思うのだけれど、表現者としての苦悩、過去の作品について言い訳をしたい気持ちとか、おれが自分に重ねて胸の詰まるような思いのする部分もあるし、あとはちょうど2018年のホットな、そして馬鹿馬鹿しいトピックとも言える青山の児童相談所設置反対、とかLGBTには生産性がないと発言した人が炎上したよな、とか、そういったことがとても近い形で作品の中に登場する挿話もあり、思わず本の末尾の刊行年月日を確認してしまいました。35年前から進歩していないことや、簡単に解決に至らない問題ってたくさんあるんだねきっと。それから、信仰を持たぬ者としての宗教への強い憧れと距離感を描くことの多い作者ですが、事件から10年後に電話をかけてきた誘拐犯の現在が、宗教集団で青年部をリードする立場になっているという対比も象徴的であり、そもそもがその犯人を単純な犯罪者に貶めない、ままならない相手として描き、出会いの場面では実際ある程度痛いところを突かれていた、という苦しさの用意も、とてもこの作者らしいと思います。

物語の結末の感動もさることながらおれがこの作品に特別惹かれるのは、降りかかる悲劇に対して、主人公たちが有効な反撃をし得ないために蓄積されていく「暴力の電荷」の表現によってであるように思います。暴力的な気分というもの自体の気持ち良さ、と言い換えてもいいかもしれないぐらい。それは最終的に障害のある息子によって感動に昇華させられるための、物語の中の装置でしかないとも言えるのかもしれません。でも、我々の実際の生活に身近にあるものとして多いのは、やはり残念なことになんの報いも与えられない悲しい出来事の方ではないでしょうか。もちろんこの作品の中でも、誰の目にも苦しみに見合うような報酬が与えられて結末に至るというわけではありません。障害のある息子がもたらすささやかな感動をもって、大きな悲しみを耐え抜いてこれからも生きていく支えとしようという、そのみなし方にのほうに主題があるとは考えつつ、むしろそうであるからこそ、では自分はどのようにして繰り返し降りかかってくる悲しみに対抗していけばいいのか、という課題は突きつけられたままでそこに残っているように思います。困ったことに、怒りとか、暴力的な気分それ自体はけっこう美しいよね、と感じる自分をどう扱っていくのがいいのか?と考えなくてはいけない。

簡単な例えに置き換えて、駅で人にわざとぶつかられたように感じたこととか、親しい人との会話の中で理解してほしいことが伝わらず寂しい思いをしたとか、もっと些細なことでも、どこにもぶつけようのない怒りを飲み込んだとか、どこかにぶつけてしまうことは間違いだと理性が判断してその場は抑え込んだけれども小さなしこりとして残っているとか、そういったことは毎日のようにある、という人も多いのじゃないかと思います(「鎖に〜」の中では作者が大人しく我慢をしたという描写はあまりない代わりに、同じように辛い思いをしているはずの妻が止めに入るという形を取っている場面が多いですが、これは家族という単位で連帯して生きている、つまり内側からの抑止力と捉えているという面と、反対に身近な人によって孤独な怒りの内圧がより高められるという面との、両方の効果を感じます)。もちろん、もっと深刻で大きな問題と日々向き合っている人もいますよね。そしてそういう出来事に対するリアクションは、人によって本当に様々だと思います。やられたらやり返すという人、気にするだけ無駄としてすぐに忘れられる人、自分の気持ちを落ち着かせるためのおまじない、手段を用意している人など。おれの場合は小さなことでも反射的に怒りが沸騰して気分が悪くなることが多いので、この作品のなかでの作者の感情の描写に強く共感するのかもしれません。その瞬間は気分の悪さだけが自覚されているけれど、後から思い返すと普段から蓄積しているフラストレーションが爆発する出口を探して体の中で勢いよくのたうちまわる、あれってなんかちょっと快感だったよなあと認めざるを得ない。冷静な頭で考えればストレスは無いほうが望ましい、怒りもない方がいい、例えそれが噴出しそうな瞬間があったとしても抑え込むことが正解だ、とわかっている。でもその理想を実現するためには、暴力的な気分のもたらす快感を自覚し、切り離して手のひらで仔細に眺め弄ぶような、ほとんど苦行と言っていいような段階が必要なのじゃないか、と考えています。

はじめのほうに、この作品からは暴力というものについて考える材料をもらったというようなことを書きましたが、なにか独自の見解に基づいた結論とか、そういうものを提示する気はないし、自分の中でもまだまだ、考えるべきことは増えていく一方だな、、とうんざりする気分でいるような状態です。とかく速く走る必要がある今の貧しい時代にあって、ゆっくり考えるという行為はもはやなにかそれ自体に理由づけや言い訳の必要なことなのかもしれません。逆になぜ考えることをし続けるのかというと、それが好きなんだよと言い張りながらも、たぶん速く走ることが苦手で、それをできる限り避けたいだけなのかもしれません。戦争反対と声を上げるのもいい、差別は良くないと口に出すことは本当に簡単。だけど自分の中にある純粋でくだらない暴力的な欲求を自覚して、だとすれば当然自分よりもその欲求が体内に占める割合が大きい人もたくさん存在するだろうという想像を経ているかどうかは、最終的に暴力を批判する意見を打ち出すとしても、その重みに大きな差をもたらすかもしれない。さらに反対に、まず心が感じる「暴力はよくない」というメッセージに即時に従う、その姿勢もまた強い説得力を備えているとも思う。暴力はよくないと発言するのに暴力それ自体の快感を自覚する必要がある、という理屈と対極かつ相似形の、根源が直感的であるほどその表現に説得力が与えられる、という理屈も信じられる。果てしない。

LGBTという言葉がほとんど流行していると言ってもいいぐらい、それを擁護する言説をよく見かける今の状況を、当事者の1人としてむしろ簡単には気分良く思わない、という姿勢を表明している千葉雅也さんの発言におれが強く膝を打つことが多いのも、これと近い話じゃないのかなと思っています。千葉さんの主張の論理的構造は、最低限同じだけの労力を考えることに費やした上でないと理解したとも言えないと思うので、おれがここで近いことを考えているはず、と発言することも結局は気軽なLGBT擁護と同じような不快感を抱かせることになるはずだ、とも思う。想像力だとか、考えて理解することの一番の難しさはここだと思います。「わかる」と発言することの危うさ。

敵を倒すことを目的にしたゲームや漫画に熱中する人にも、倍返しするドラマにスカッとする人にも、共感できると思う。暴力は社会を動かす大きな力の1つだと思います(そしてフィクションと現実を綺麗に切り分けることができる、というのがいつのまにか当たり前に多くの人が持っている尊い能力の1つであるとも思います)。ところどころで違和感を感じながらも、基本的に自分以外のあらゆる人はみんな自然に生きている、その中で自分がどんな態度を取っていくべきか?美学、倫理、責任と、大事な指標はたくさんある。雑なまとめになってしまいますが、おれはまだひたすら慎重に生きていく、考えているだけの時間の安らぎを甘受してふらふらさせてもらおう、と思っています。

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