2024.4月

下の子が浴槽のフチに捕まって自分で立てるようになって以降、うしろから抱えたまま一緒に浴槽にゆっくりと浸からせ、手を離す。すると、足がついたのを確かめひと呼吸のちに必ずフワリと振り向きゆっくり抱きついて来る。不安と安心の間を電子のように行き来しているのが伝わってくる仕草が本当にむちゃくちゃ愛おしかったのだけれど、ここ数日それをしなくなった。足が付き、おれの手のホールドが離れると、後ろには一瞥もなしに、蛇口で遊ぶためにフチに沿って移動し始める。ぼちぼち振り返らないかなーと、受け止める手を出したまま待つ数秒間に痛感する、小さな奇跡の連続はあるとき途絶えてしまう。一度途絶えると、元々それがあったことの証明もない、一才になったばかりの子供の記憶に残るはずもなく、それを見ていたのはおれだけなんである。(これからもっと印象深い出来事に上から塗り替えられて、という期待にある程度救われながらのことではあるけれど)恐らくおれもこれを忘れる。子供に関わることでなくても、例えばおれが10代の頃にもなんだかこんな感覚はあった。減っていくものよりも増えていくものが多いはずだという保険のある上でやっていたあれを今では感傷の児戯だと感じつつ、その当時の切実さもそれなりにあったと、自分の記憶だけじゃなく今では子供の視点を借りてリアルにイメージするようになっている。

3歳半の上の子はもうすぐ、のちの人生にある最初の記憶にあたる時期を迎えるのだと思うけれど、逆に言えばこれまでの3年半のことは、これも本人の記憶には残らないということであって、このことを考えると本当に、喉に仕掛けがあるチキンのおもちゃを押し潰した時と同じ声がでる。ァガギャァァーゥンィィー
子供と付き合い出すまでのおれは、あとの人間に3歳頃までの記憶がほぼ残らないのは、その年齢までの人間の意識自体が茫漠としてるからだろうと想像し納得して生きてきたけれど、いま実際に3歳児と関わってみればこんなもん、もうほとんどおれと変わらない、人と人の会話ができる、洞察力も論理的な思考ももう成立している。こんなに意識がはっきりしている期間の記憶があとに残らないのはマジで納得いかない。そしてこの気持ちも、その手触りを恐らくおれは10年後よく覚えてない。記号化して記憶はしてるだろうという予想はできる。小さな子供が出て来る映画とかを見て鮮明に思い出す瞬間があり、号泣するという予想まではできる。今の今までこんな大事なことを忘れてたとびっくりするはず。ほんで夜中にちょっとタバコ吸って来るわ〜つっていなくなる嫌なおっさんのできあがりである。



今年は真冬に寒さがたいしたことない日が多かったけれど、三月の中旬以降うすら寒い日が続いた。2011年の3月の後半がそうだった。築40年の激安アパートの窓を全開にしてうずくまりながら寒さを呪い倒していたのを覚えている。この「覚えている」というのも今や信用ならない。毎年3月に思い出すのだけれど、繰り返し取り出すことになる記憶は、思い出すたびにある意味では強固になり、ある意味では当時実際の有り様から離れていく。思い出すということは自分に向かって再び語り直すということで、その都度、毎回必ず主観による修正が入り、新版の原稿には誤植も混じる。
そう考えると人生に確実に正確な記憶は全く存在せず、全く存在しないとわかっているものを後生大事にする、のはまあそいつの好きにすればいいとしても少なくとも信用できるものではないという意識を持つのが常識的で真面目な態度なのだと思う。

その上で、その上でよ、おれが10年以上前にブログに書いていた「生きるというのはつまり記憶するということなんじゃねえか」というような考え方には今もまだ同意できるな、と思っている。むしろ今のほうが当時よりこの考え方が体にちゃんと入っていて、意味があるかどうか、価値があるかどうかで選択を迷うということがなくなった。こなれて楽になってきた。こなれるということの意義の大きさを、おれ自身の若干の非定型っぽさと絡めて考えることが増えた。人の持つエネルギーの源泉となりうるものの中で「慣れ」というのはいちばん大きなもののひとつだと考えてきたけれど、それもあんまり一般的なもんだとは言えないのだろうと、なんでも人によるよねというまとめかたじゃなく、おれ自身の欠陥性というか、ある程度限定された人にしか適用されない考え方なんだろうねと思うようになった。ある程度限定された人には適用される準一般論、みたいなものもたくさんあるとは思う。



上の子が深夜に眠れないと泣いて、すこし久しぶりに抱っこで最後まで寝かしつける、これをやらせてもらえるのはあと何回なのかと考えて今度はおれがボロボロ泣いてしまう。大きくなりすぎるのが先か、おれの身体が全然無理になるのが先か、とにかくなんでおれは未来の喪失のイメージを先取りすることがこんなに好きなんだろうと思う。これに関しては親の育て方とか、そういう他人に責の無い、おれ自身のやってきたことの積み重ね、おれが自分の人生の学びとして得てきた負の成果物の大きな一面のはず。

はじめの段を書き始めて2〜3週間くらいもう過ぎているが、その間に下の子が今度は急に風呂嫌いになってしんどい思いをしている。
書いておかないととにかく全部忘れてしまう。忘れてしまうならそれまでのことと考えるのが「常識的で真面目な態度」に繋がるわけでしょ。それでもなにやら抗いたいよなおれはいつも、という気持ちのほうに従ってなんとかかんとか日記を書き付ける次第。

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