『マチネの終わりに』第九章(16)
最後のジーグを弾き終えると、蒔野は、スタンディング・オベーションでその演奏を讃えられた。洋子ももちろん立ち上がって手を叩いた。
蒔野は、感極まった面持ちで会場の全体を見渡し、一礼した。舞台袖に下がって、また戻ってくると、アンコールに《ヴィジョンズ》と《この素晴らしき世界》を演奏した。ようやく少し安堵したような表情だった。すっかり満足した聴衆も、ほとんど歌い出さんばかりの様子で、洋子の隣の夫婦は、実際に小声で歌詞を口ずさんでいた。
二度目のアンコールに応えて、再び舞台に登場した蒔野は、この日初めてマイクを手にして英語で話を始めた。感謝の気持ちを伝えたあと、
「ここの会場は初めてなんですが、音もとても素晴らしくて、演奏していて、とても良い気分でした。近くにセントラルパークもあるし、……今日はいいお天気ですから、あとであの池の辺りでも散歩しようと思ってます。」と続けた。聴衆は、そのやや唐突な〝このあとの予定〟に、微笑みながら拍手を送った。洋子は、彼の表情を見つめていた。
蒔野はそして、一呼吸置いてから、最後に視線を一階席の奥へと向けて、こう言った。
「それでは、今日のマチネの終わりに、皆さんのためにもう一曲、この特別な曲を演奏します。」
洋子は、微かに笑みを湛えていた頬を震わせ、息を呑んだ。蒔野がこちらを見ていた。そして、「みなさんのためにfor you」という言葉を、本当は、ただ「あなたのためにfor you」と言っているのだと伝えようとするかのように、僅かに顎を引き、椅子に座った。
ギターに手を掛けて、数秒間、じっとしていた。それから彼は、イェルコ・ソリッチの有名な映画のテーマ曲である《幸福の硬貨》を弾き始めた。その冒頭のアルペジオを聴いた瞬間、洋子の感情は、抑える術もなく涙と共に溢れ出した。……
*
終演後、蒔野は独りセントラル・パークを散歩しながら、午後のやわらかな日差しに映える美しい木々の緑を眺めていた。週末で家族連れも多く、芝生のあちこちでピクニックや日光浴を楽しむ人の姿が見えた。
第九章・マチネの終わりに/16=平野啓一郎
▲ヴィジョンズ
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