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『マチネの終わりに』第六章(49)

 三谷は酷く濡れていて、疲れ果てたような様子だった。そして、蒔野の前に立つと、泣き出してしまった。

「どうしたの?」

 蒔野は礼を言いながら、驚いて理由を尋ねた。三谷はただ、携帯電話を水たまりに落として壊してしまったとだけ伝えた。

 蒔野は、手渡された電話の電源ボタンを押し、それから手当たり次第に色んなボタンを押してみたが、何の反応もなかった。

「……すみませんでした。」

 三谷は震えていた。困ったなとは思ったが、蒔野は怒ることは出来なかった。むしろ、自分はこういう失敗の時に、彼女をここまで怯えさせるほど、このところ、酷い態度だったのだろうかと気が咎めた。

「しょうがないよ。元々なくなってたものだし、出てきただけでも。……ありがとう。」

 蒔野は、三谷の様子に、この時、異変を感じていないわけではなかった。しかし、この雨の中、仕事で携帯電話なんかを取りに行かされれば、当然だろうと思っていた。或いは、雨に濡れて、風邪でも引きかけているのかもしれない。

 いずれにせよ、問題は洋子と連絡を取る方法だった。彼女こそ、長旅でくたびれ果てているのに、今頃どうしているだろう? 機転の利く人なので、駅でじっとしているということはない気がしたが。……気が気でなかったが、祖父江の容態がいつどうなるかわからなかったので、一旦、自宅に戻ってパソコンから連絡を取るわけにもいかなかった。

 蒔野はふと、三谷が初対面の時に、洋子と名刺を交換していたのを思い出して、

「小峰洋子さんの連絡先、知らない?」

 と尋ねた。

 三谷は、目を瞠った。知らないと言うべきだったが、咄嗟のことに慌てて、

「メールアドレスなら、多分、わかります。」

 と言ってしまった。

「あ、ほんと? よかった。なんだ、どうしてもっと早く気がつかなかったのか。……ごめん、ちょっと至急、連絡したいことがあるから、三谷さんのケータイからメールを送ってもらってもいい?」

第六章・消失点/49=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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