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『マチネの終わりに』第七章(20)

 あれも、自分にバグダッドを思い出させる悪い記憶の一つだったのかもしれないとさえ考えた。聴けばまた、ようやく解除されたらしい自分の中のセンサーが、不意に鳴り出してしまうかもしれない。

 結婚をきっかけにニューヨークに移住し、仕事も辞めてしばらくはゆっくりした。

 ジャリーラのことは、最後まで心配だったが、フィリップがバグダッドから帰国したタイミングで相談して、一人暮らしを支援しつつ、彼の知人の女性が当面は世話役を引き受けることになった。ジャリーラは、洋子の結婚を心から喜び、自分のことは気にせずにニューヨークに行ってほしいと強く訴えた。いつでもスカイプで話せるのだから、と。

 蒔野のことは、なかなか忘れられなかったが、そういう自分を責め、子供を妊娠した頃からは、自然と彼を思い出すことも減っていった。

 この日、唐突に彼の記憶が蘇ってきたのは、無意識の曰くありげな作用だった。

 というのも、洋子とリチャードとの結婚生活において、この夜のパーティーは、一つの節目となったからだった。

 春先から薄々察していたリチャードの浮気の相手は、後にヘレンだとわかった。そして、洋子がヘレンと顔をつきあわせて二人きりで会話をしたのは、後にも先にもこの一度だけだった。

     *

 リチャードは、ヘレンとの関係を通じて、肉体的にも精神的にも、大きな慰めを得ていたが、罪悪感がそれを損なうかと言えばそうでもなく、むしろその良心の呵責こそは、現実のままならなさを受け容れるのに不可欠な、意外な効能の妙薬だった。

 人知れず“悪”を犯しているという優越感が、彼をたしなめ、謙虚にさせた。

 忍耐には大抵、損得勘定が伴うものだが、人より多くの我慢を強いられているという意識の身を焼くような煩悶にとって、他方で、人が当然に守っている禁止をこっそり破っているという疚しさは、一服の清涼剤となった。


第七章・彼方と傷/20=平野啓一郎
#マチネの終わりに

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