『マチネの終わりに』第六章(29)

 洋子の日本滞在は、僅かに一週間の予定で、蒔野はそれをやはり、短いと感じたが、ジャリーラを独り残して、あまり長くパリを空けるのは心配だという彼女の考えは理解できた。彼が愛しているのは、まさしくそういう洋子だったが、休暇自体は二週間取っているらしく、パリに戻ってからの残りの一週間を、どんなふうに過ごすのだろうかと思うと、その傍らにいられないことをもどかしく感じた。
 洋子自身も、短いとは感じていた。
 ジャリーラのことが気に懸かっていたのは事実だった。ジャリーラは、むしろ洋子に日本でゆっくりしてきてほしいと言っていたが、本心は不安そうに見えた。彼女は、洋子の精神状態を知る医者以外の唯一の存在で、共に慰め合えるただ一人の相談相手として、その日本滞在が長期に亘ることには懸念を抱いていた。
 無論、洋子自身も、自分の体調を危惧していた。
 ジャリーラは洋子に、どうして蒔野にPTSDについて打ち明けないのか、きっと心の支えになってくれるに違いないと、何度となくふしぎそうに尋ねた。
 しかし、洋子はそれを頑なに拒んで、後にも先にも、決して見たことがない厳しい表情で、もうそのことは言わないでほしい、万が一にも、勝手に蒔野にこのことを伝えるようなことがあれば、あなたとの信頼関係は終わってしまうことになる、と言った。
 洋子は、ジャリーラのような立場の人間に対して、自分は何ということを口走ってしまったのだろうと、その後、後悔した。彼女が怖れていたのは、ジャリーラのまだ若い、あまりに純粋な衝動だった。
 何よりも、ジャリーラは蒔野の音楽的な苦境について知らず、それを見守る存在でありたいという洋子の思いを理解していなかった。蒔野の知らないところで、彼のそんな噂話をしたくなく、洋子はそれについては何も話していなかった。あとで事実を知ったならば、余計なことをしてしまったと、結局、ジャリーラ本人が傷つくのは目に見えていた。
 そして、それ以上に、ジャリーラは、洋子の三谷に対する嫉妬を知らなかった。

第六章・消失点/29=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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