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ある男|16−5|平野啓一郎

帰宅後も、城戸の頭には、この思考がしつこく留まり続けていた。

数日前に、彼は久しぶりに谷口恭一に連絡をして、原誠について、これまでわかっていることを説明した。これは里枝からも、そうしてほしいと依頼されたことだった。目下、最後の謎は、原誠がボクシング・ジムをあとにしてから里枝と出会うまでの九年間の足跡で、取り分け、重要なのは谷口大祐の安否確認だった。そして、そのためには、親族に協力を仰ぐのが、最も可能性の高い方法だった。

電話口で、恭一は、何度も「ええ? マジですか?」と驚きの声を発していたが、話が一旦、途切れると、一昨年末、彼に最初に面会した時とはまた深刻さの度合いを異にした声で、

「大祐は、やっぱりその男に殺されてるんじゃないですか? だって、そんな狂った殺人犯の子供なんでしょう?」と言った。

城戸はいつになく、少し感情的になって、

「そんなことは言えないでしょう。第一、殺人者の息子っていう出自から自由になって、社会に受け容れられたかったんだから、自分が殺人を犯せば、元も子もないんですし。」と言った。

恭一は、その内容にも口調にも呆れたように鼻を鳴らすと、

「だから、バレないように殺すんでしょ? 父親も父親なんだから、そんな理性的なものの考え方はしないでしょう? カッとなったら何するかわからないですよ。」と反論した。

「原誠さんが弟さんに会った時には、恐らくもう、『曾根崎義彦』って名前だったはずです。つまり、死刑囚の子供ではなくなってるんです。だからこそ、弟さんも戸籍の交換に応じたんじゃないでしょうか。仲介者もいるんだし、殺してまで相手の戸籍を強奪する理由はないでしょう?」

「そんなの、全部、先生の推理でしょう? 言っちゃ悪いけど、妄想と何が違うんですか? なんか証拠があるんですか? 殺す理由は幾らだってありますよ! 例えば、死刑囚の子供だって秘密を大祐に知られて、口封じに殺したとか。」

「ないでしょう、それは。」

「どうして?」

「そういう人だとは思えません。」

「はあ? 先生、どうかしちゃったんじゃないですか? 何でそんなこと、言えるんです?」

「彼をよく知る人たちに話を聴いたからです。」

「そんなもん、人間なんだから、ウラオモテもあるでしょ?」

「──とにかく、それを確かめるためにも、弟さんを一緒に探してほしいんです。それをお願いしてるんですよ。」

幾ら兄弟仲が悪いとはいえ、恭一に異存があろうはずはなかったが、彼自身も立腹してしまい、この時には、明確な返事を聞くことが出来なかった。

城戸は、父親が父親なのだから、息子も人を殺しかねないという恭一の放言にカッとなったが、電話を切ってからも、収まりがつかず、頭の中で反論しているうちに、段々と、自分の理屈が心許なくなってきた。

城戸が、殺人犯としての小林謙吉を理解しようとするのは、その暴力的な父親からの影響の故だった。だとするなら、同様に劣悪な家庭環境に育ったその子供──つまりは原誠──に、犯罪のリスクを見ようとする恭一の態度は、一理あると言うべきだった。遺伝的にも、原誠の風貌は、哀れなほどに父親に似ていて、しかも、彼の純粋な心の反映のようなあのスケッチは、皮肉と言うには、あまりに過酷だが、父親の獄中の絵とそっくりなのだった。

実際、原誠の人生は、常に過去と未来に押し潰されそうになっていたに違いなかった。彼の心が自由になれなかったのは、父親が過去に犯した罪のせいである。子は子であり、その責任を彼が感じねばならない理由はない。しかし、被害者の家族が苦しみ続け、加害者の家族に苦しみがないという非対称に、他でもなく、彼自身が不合理を見て、苦しんでしまう。しかも、彼は過去に対しては負い目があり、未来に於いては、父親の罪を反復するかもしれない社会のリスクと見做されているのだった。

他人からそう見られていたというばかりではない。原誠を最も恐れていたのは、原誠自身に外ならなかった。──しかし、だから何だというのだろう? それは、城戸が、「原誠はそんな人間じゃない。」と信じることと、何の関係もないはずだった。彼と接する誰もがそう言明していたなら、原誠は、戸籍を変える必要もなく、今も原誠として生きていることが出来たのではあるまいか?

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