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『マチネの終わりに』第六章(13)

 リチャードの持ち物も多少あり、婚約指輪もまだ手許にあった。話を切り出した時に返そうとしたのを、彼が置いていってしまったのだった。
 ニューヨークに郵送することも考えたが、高価すぎて、さすがにそれも躊躇われた。彼に対する罪悪感もあり、せめて手渡しで返せるくらいの終わらせ方にはしたかった。
 リチャードは、そういう洋子の気持ちに、一種の揺らぎを認め、何かにつけて口実を見つけては、連絡を絶やさぬようにした。毎回、復縁を迫るわけではなく、つきあっていた時と何も変わらぬ調子で、明るく用件だけを伝えて電話を切ることもあった。まるでもう、すべては解決済みであるかのようだった。
 その一方で、翻意を促す共通の友人や彼の家族からの説得もあった。洋子はとりわけ、リチャードの高齢の両親からの手紙に胸が痛んだ。
 リチャードの姉で、彼自身よりもむしろ気が合い、洋子が家族になることを心から喜んでいたクレアとは、電話で二度話したが、蒔野の存在を伝えると、
「もうプロポーズは受けたの?」
 と、親身な口調で現状を確認された。洋子はそれに、「いえ、でも、……」と答えかけたが、クレアは、それで十分というふうに、
「わたしたち家族は、誰もあなたを責めない。本当よ。だから、どうか考えなおして。リッチーはあなたのことを本当に愛してる。姉のわたしから見ても、彼はとても思いやりのある、誠実な人間よ。頭も良くて、経済的な余裕もある。彼は苦しんでる。あんなに打ち拉がれた弟の姿を見るのは初めて。当然よ。彼の人生に、あなた以上の女性なんて、もう決して現れない。――だから、戻って来て。忘れましょう、もう。」
 と優しく言った。
 洋子は蒔野と、当たり前のように結婚を前提にした今後の生活の話をしたが、正式なプロポーズは受けていなかった。
 あの夜は、とにかく、抱擁の衝動が、ただ「愛している」という言葉以外の一切を振り切ってしまう一方で、ジャリーラのことも気懸かりで、その機を逸してしまった。


第六章・消失点/13=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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