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『マチネの終わりに』第八章(11)

「誰かを見殺しにしたとか、身代わりにさせたとか、戦闘で実際に人を殺したとか、そういう具体的な経験がなくても、生き残ったっていう事実自体、やっぱり人を苦しませるものなのね。他の人ではなく、自分が生き残ったことには、何か意味があるはずだって考えて、それが見つからないっていうことは、……あなたの経験とは比較にならないけれど、わたし自身も、それはわかる。」

 ジャリーラは、掌で何度も涙を拭いながら話を聴いていたが、自分なりに考えを整理しようと努めながら、

「あなたが、マキノサンを愛していた時にPTSDで苦しんでいたのも、そのせい? 幸福になってはいけないと感じてたからですか?」

 と尋ねた。

 洋子は、その思いがけない問いかけに、一瞬、言葉を失った。そして、すぐに、

「わたしの場合は、そうじゃなくて、バグダッドでの生活にからだが適応しすぎてしまっていたから。パリに戻ってからも日常生活に復帰できなくて、……」

 と否定しかけた。しかし、その先が続かず、むしろそうなのだろうかと考えた。「生存者の罪悪感survivor's guilt」という言葉まで知っていて、しかも、これまで一度として、そんなふうに思ってみたことがなかったというのは、むしろ無意識にそれを避けていたからなのかもしれない。蒔野から別れを告げられたあと、せめて彼からの電話に応じ、会話だけでもすべきであったのを、あんなに激しい発作に見舞われ、その不安のために、どうしても連絡できなかったというのは。――わからなかった。

 イラクで生きた自分を忘れ、無かったことのようにしたかったからこそ、却ってそのセンサーの警報音は、大きく鳴り続けていたのだろうか? 蒔野との愛に浸る幸福な自分は、あのイラクでの自分を消してしまいたがっていた。しかしそのために、イラクを体験したはずの自分は、むしろ狂ったように、そういう自分を責め立てていたのではなかったか? そのどちらもが、あのまま競うようにして自分を攻撃し続けていたなら、自分にも、自殺という発想が芽吹いた瞬間が訪れていたのだろうか?

第八章・真相/11=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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