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『マチネの終わりに』第八章(51)

 ――普段の生活だって、右に道を曲がっても、それが自分の意志だったのか、曲がりたくなるようにデザインされたカーヴだったからなのかは、わからない。善行にせよ、悪行にせよ、人間一人の影響力が、社会全体の中で、一体何になるって。」

「お前はどう思う?」

「……わからない。揺れてるっていうのが、本当のところかしら。矛盾したことを言ってる気がする、時と場合によって。――誰も行動しなければ、この世界が動かないのは事実だけど、お父さんが言うみたいに、人間が自分で考えて行動しなくても良いように、この世界はどんどん自動化されていってるから。車の運転が完全に自動化されれば、乗ってる人間のすることは、みんな“余計なこと”になるでしょうね。あるいは、織り込み済みのエラーか。……インターネットみたいな便利なものが登場して、そのお陰で遠くの人とも顔を見ながら会話が出来て、心を通い合わせることが出来るようになった。その一方で、悪用することだって出来る。でも、すべてはコミュニケーションそのものが自己目的化されたシステムの中で起きる、予想可能な些細なトラブルに過ぎなくて、そこで人の心が傷つこうと、誰かと誰かとの関係が絶たれてしまおうと、システムそのものの存続にまでは影響を及ぼさない。幸福や不幸を、誰のお陰で誰のせいだって考えようとしても、途方に暮れるところがあるわね。自分自身も含めて。……」

 食事を終えて、洋子はホテルに戻る前に、ソリッチとオーシャン・アヴェニューを散歩した。

 前を向いても上を見上げても、高層ビルのせいで空が小さく見えるニューヨークでの生活に倦んでいる洋子には、海上に広がる空の単純な大きさが、殊の外、心地良かった。

 パームツリーやイチジクの木の緑には、微睡むような白んだ光が注いでいる。足下の芝生に落ちている影に目を遣りながら、洋子は、それが決して単なる黒ではない、様々な色を持っていることを改めて感じた。

 ソリッチは、薄手のジャケットを右肩に持って、風で飛ばされないように帽子を深く被っていた。


第八章・真相/51=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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