ある男|21−3|平野啓一郎
案内されたテーブルは、意外に窓からも近く、彼方に皇居が見える青空の下の広大な東京の街を眺めながら、ここからの景色で十分だったと城戸は思った。
座ると、三人ともほっと一息吐いた。一時間半ほど歩いただけだったが、電車の移動もあり、心地良くくたびれていた。
店内は家族連れやデートの客で賑わっていて、酒のせいで話し声も大きかった。これなら颯太が椅子にじっとしていられなくなっても、あまり周りに気を遣わずに済みそうだった。
颯太には、ハンバーグがついたお子様ランチとオレンジ・ジュースを、城戸と香織はサラダやスペアリブを注文し、それぞれにシメイの白と、名前の読み方もわからない、珍しいドイツのピルスナーを選んだ。
飲み物はすぐに来て、一先ず三人で乾杯した。城戸は、一気に三分の一ほどを飲んで、一番風呂にでも入っているかのような、寛いだ、長い息を漏らした。シメイの奥行きのある果実風の苦みが、心地良く舌に広がった。
「うまいなァ、久しぶりに飲むと。」
更に三分の一ほどを飲み干して、おくびを堪えた。
颯太が父親を真似て、ジュースを飲んでから、
「はあー、うまいなあ、ひさしぶりにのむと。」
と言って、おかしそうに笑った。城戸も香織も笑った。
「飲んでみる? こっちもけっこう美味しい。」
そう言って、香織はグラスを差し出した。城戸は軽く口をつけると、「ほんとだ。さらっと飲めるね。」と後味を確かめながら頷いた。
食事は、サラダだけが来て、なかなかあとが続かず、ほど経てスペアリブが来たが、肝心のお子様ランチが出てこなかった。颯太にスペアリブを食べさせようとしたが、「からい。」と言って、一口で、突き刺した肉をフォークごと皿に戻してしまった。
「ねえ、ママ、スマホのゲームであそびたい。」
香織は、仕方ないという風に、颯太の好きなパズルゲームの画面にして手渡した。
肉を食べながら、二杯目のシメイをもうほとんど飲んでしまった城戸は、少し酔って、ますます気分が良くなった。
「ごめん、ちょっといい?」
香織は、席を立ちながら、携帯をどうしようか迷っている風だったが、そのまま颯太に預けていった。
城戸は、「おそいね、おこさまランチ。」と颯太に声を掛けながら、二年前の冬、渋谷で谷口恭一に初めて会った日の夜のことを思い出した。あの時、寝室で颯太を寝かしつけながら感じた強烈な幸福感のことを考え、今も自分は幸福なのだと胸の裡で呟いた。
『──どこかに、俺ならもっとうまく生きることの出来る、今にも手放されそうになっている人生があるだろうか?……もし今、この俺の人生を誰かに譲り渡したとするなら、その男は、俺よりもうまくこの続きを生きていくだろうか? 原誠が、恐らくは谷口大祐本人よりも美しい未来を生きたように。……』
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