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ある男|23−4|平野啓一郎

城戸の報告を受け取った里枝は、この一年余りもの間、失われていた夫の名前が、最終的に「原誠」だとわかって、ようやく彼と出会い直したような感じがした。とは言え、あの日、初めて店を訪れて以来、死に至るまで一緒に過ごした思い出の中の彼に、そのまま「原誠」という固有名詞を与えれば、それで済む、というものではなかった。

「大祐君」という生前の呼び名は、間違って使っていた他人の持ち物のようで、もうあまり触れたくなかったが、すぐに「誠君」と心の中で呼ぶことも出来なかった。第一、そう呼びかけることが正しいのかどうか、彼からの返事を受け取ることの出来ない彼女には、わからなかった。

城戸の報告書によると、今まで自分よりも一歳年上だと信じていた彼は、実は二歳年下らしかった。里枝はそれを知って、自分がどうしても「君」をつけて呼びたくなった理由が、今更のように納得された。

そして、城戸が帰った後、長らく見ることが出来なかった彼の写真を、久しぶりにパソコンで眺めながら、やはり彼は、いつかは本名で呼んでもらいたかったのではと感じた。「谷口大祐」としてではなく、原誠として、自分の全体が愛されることを願っていたのではないだろうか。

小林謙吉という人物を、里枝は知らなかった。有名な事件らしいので、当時はニュースを目にしていたであろうが、記憶がなかった。その内容は、目を覆うばかりの悲惨さで、悠人に見せる城戸の報告書も、そこだけは伏せるべきではないかと随分と迷った。

殺人という、金輪際、無縁の世界が、知らぬ間に自分の家族の問題となっていたことが、里枝を動揺させた。谷口恭一は確かに、亡夫の凶悪犯罪の可能性を示唆していた。実際に、殺人犯の子供だったとわかって、彼は、そら見たことかと思っているだろうか? けれども、夫本人はやはり、何の罪も犯してはいなかったのだった。

里枝は、城戸の報告書に書かれている「原誠」という人物の境遇を、つくづく、かわいそうだと感じた。そして、「谷口大祐」の不幸を通じて、自分に伝えようとしていたのは、このことだったのだろうかとやはり考えた。どうしてそんな方法だったのかは、里枝にはわからなかった。理由はどうであれ、心に深い傷があることだけは知ってほしかったのか。原因を偽ったとしても、怪我は怪我であり、痛みは痛みだった。治療方法は、その分、混乱するはずだったが。──

「原誠」が、遺伝の不安に苛まれていたというボクシング時代の関係者の証言は、花のことを考えると、里枝に新たな悩みを抱かせずにはいなかった。

花にも殺人者の血が流れている、などと、唐突に気味悪がるわけではなかった。そんな風には、意外なほどまったく思わなかったが、ただ、いつかその事実を知れば、本人は悩むのかもしれない。その点は、「原誠」と血が繋がっていない悠人とは違っていた。悠人も彼の血の繋がった子供だったなら、今日、あの報告書を見せることに、更なる躊躇いがあっただろう。

そして里枝は、自分がもし、最初からその事実を知っていたなら、果たして彼を愛していただろうかと、やはり自問せざるを得なかった。

一体、愛に過去は必要なのだろうか?

けれども、きれいごと抜きに考えるなら、自分と悠人の生活を支えるだけでも精一杯だったあの時に、それほどの苦悩を抱えた彼の人生までをも引き受けることは、出来なかったかもしれないという気がした。

──わからなかった。ただ、事実は、彼の嘘のお陰で、自分たちは愛し合い、花という子供を授かったのだということだった。

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