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『マチネの終わりに』第三章(17)

 土台、雄渾なチェロという楽器の響きを、今の彼女は、とても受け止めきれなかった。

 人間的な喜怒哀楽と、まったく無関係に屹立するバッハの楽曲を、蒔野のギターは、あの日のコンサートと同様に、そっと手を差し伸べるように彼女にもたらした。それでいて、彼のまだ若い、才能とのハネムーンを心ゆくまで楽しんでいるような演奏は、彼女の心をすべて受け止めて、まったく揺るぎなかった。

 ただその音楽とだけ一つになって、すべてから解放されたかった。時間と旋律とが、一切の過不足なく結び合って流れてゆく美に融け入りたかった。

 まだ二十代後半の蒔野のジャケット写真にも、彼女がフィリップに語った「神様が戯れに折って投げた紙ひこうき」の風情があった。それに比べるなら、あの夜のコンサートの思索的な表情の眉間には、いつまで経っても落ちてこない飛行機の先端に、微かに兆した震えのようなものが感じられた。

 スペイン料理店での会話の最後に、彼は「もう一つ、洋子さんだけが気づいてることがあるね。」と言った。あれは、何だったのだろう? ブラームスを褒めると、あんなに喜んでくれた。それ以外の演奏には、納得していなかったのだろうか?

 洋子は、向かい合って、正面から見つめた彼の笑顔を思い出した。

 あの夜、ひとりでタクシーに乗らずに、朝まで一緒にいたいと言ったなら、どうなっていたのだろう? バグダッドへ来る前に、ただ美しいものに触れるだけでなく、彼に抱かれていたなら、自分の人生は、今どう変わっているのだろう?

 蒔野に会いたいと、洋子ははっきりと思った。そのくせに、安否を気づかう彼からの三通ものメールに、彼女は未だに返事を書いていなかった。

 ちゃんと書きたいと思っている間に、日一日と過ぎてゆく。

 とにかく、無事であることを知らせるべきだった。そして、感謝の気持ちを伝え、彼の音楽がどれほど大きな慰めとなっているかを知ってもらいたかった。

 しかし、自分がそれ以上の何かを書きたいと感じていることを、彼女は秘かに自覚していた。


第三章・《ヴェニスに死す》症候群/17=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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