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『マチネの終わりに』第八章(22)

「でも、一生懸命なマルタは、かわいそうじゃないですか?」

「マルタはかわいそうね。……でも、イエスも、マルタが妹を咎めるまでは、彼女が忙しく立ち振る舞っていることに、何も言わなかったでしょう? マリアから、たった一つの『必要なこと』を『取り上げてはならない』っていう言葉には、マルタの不安を鎮めようとする響きもあるんじゃないかしら。」

「えー、……でも、マルタだって、本当はただ、イエスの側にじっとしていたいでしょう? けど、そしたら、誰もイエスをもてなす人がいなくなってしまう。だから我慢して、一生懸命、動き回ってるんじゃないんですか? マルタは別に、妹に手伝ってほしかったんじゃないんだと思うんです。ただ、イエスにその気持ちを知ってほしかったんじゃないですか?」

「それでもやっぱり、これは信仰の問題なのよ。ある時、突然、神に語りかけられる。その存在を間近に感じる。それは、決定的な瞬間なのよ。日常的な時間の流れとは断絶がある。――その時には、ただ神の下で、その言葉に耳を傾ける以外にない。イエスは、マルタを理解した上で言ってるんじゃないかしら? 神のために尽くすことを考えるあまり、彼女はその決定的な瞬間に、神から遠ざかってしまっているんだから。」

「洋子さんは、やっぱり、マリア派なんですね?」

「――派っていうか、……」

「この話、今まで誰としても、わたしも含めて、みんなマルタ派だったんです。――じゃあ、もし、イエスが神じゃなくて、ただの人だったら? やっぱり、誰かが彼をもてなさないといけないでしょう?」

「イエスがただの人だったなら、マルタはゲストの彼に妹の怠惰を言いつけるんじゃなくて、マリア本人に、ねぇ、ちょっと手伝ってよ、とか、代わって、とか言うべきでしょうね。」

 洋子は、この不毛な神学論争を終えてしまいたい気持ちで、そうユーモアを交えて言った。


第八章・真相/22=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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