『マチネの終わりに』第九章(13)
洋子は、自宅のしんと静まり返った部屋で化粧をしながら、その朝、鏡の中の自分を見つめていた。蒔野に最後に会ったのは、もう五年前のことだった。何を着ていくべきか、散々迷って、結局、クロエの白いワンピースに、薄手のジャケットを羽織って出てきた。目立ちたくないと思っていたが、終演後に彼に会うかもしれないと思うと、もっと他の格好があったような気がした。
会場は満席で、日本語の会話も、ちらほら聞こえてきた。洋子の両隣は、蒔野のCDを聴いて来た地元の人間らしかった。
開演時間となり、客席の照明が落とされ、舞台が明るくなった。咳払いの残りが、静まりゆく会場に、最後に一つ二つ響いて止んだ。やがて、舞台袖のドアが開いた。拍手が起こり、蒔野は黒いシャツにズボンという格好で舞台中央まで進み出て椅子に腰を下ろした。蒔野がいる。過去の記憶の中ではなく、駆け寄って行けるほどの近い距離に。そのことの現実感を、洋子はしばらく捉えそこねていた。
プログラム一曲目の《黒いデカメロン》が、緊迫した、ほとんど魔術的なほどに広大な二オクターヴの跳躍で始まると、会場はもう、先ほどまでとは別の場所になっていた。反復的な旋律が次第に空気を濃くしてゆく中で、ギターの長音が、会場の最も遠いところにまで伸びてゆく。この曲をよく知っている者、知らない者が、それぞれにその響きに驚いた。
それから蒔野は、多彩な表現で、一曲ごとに新鮮な音楽的風景を現出させていった。若い頃の一分の隙もないような世界とも違って、今は寧ろ、音楽そのものに少し自由に踊らせて、それを見守りつつ、勘所で一気に高みへと導くような手並みの鮮やかさがあった。
聴衆の感嘆は、楽曲が終わる度に、拍手と共に熱を帯びていった。最後のブローウェルのソナタの躍動的な第三楽章を興奮しながら聴き終えると、まだ第一部の終わりというのに、思わず立ち上がって「ブラヴォー」と叫んだ者がいた。
蒔野自身、その反応に少し驚いたのか、椅子の前に進み出ると、そのまま数秒間、棒立ちになった。そして、ようやく我に返ったように一礼し、舞台袖に下がっていった。
洋子は、休憩時間にロビーで一人、コーヒーを飲みながら、方々で交わされている高揚した会話の断片を聞いていた。
第九章・マチネの終わりに/13=平野啓一郎
▲黒いデカメロン
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