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『マチネの終わりに』第八章(24)

「洋子さん、知らないと思いますけど、二人でここまで辿り着くのは、言葉に出来ないくらい大変だったんです。蒔野は、ギターに指一本触れられない状態が一年半も続いて、その間、本当に藻掻き苦しんだんです。そこから、猛練習して、やっと、……やっとなんです。今はまだ、いつ元の木阿弥になってしまうか、わからないような不安定な状態です。彼を煩わせないでください。お願いします! 彼の努力をふいにしないでください。わたしが彼のために尽くしてきたことを、台なしにしないでください。洋子さんは、蒔野にとってのマリアのつもりなのかもしれませんが、彼に必要なのは、マルタのように彼の人生の面倒をみんな引き受けられる人間なんです! ただ気が合うとか、喋ってて楽しいとか、そういう非現実的なことじゃないんです。どうして今頃になって、また彼の前に現れようとしてるんですか?」

 洋子は、気色ばんで必死に訴える彼女を見ていて、なぜかむしろ、リチャードから言われた「君は冷たい。」という一言を思い出した。

 彼こそは、まさに自分にマリアのように、ただ傍らに寄り添って、その話に耳を傾けてほしかった人ではなかったか? そして、自分は決してそうではなく、といって、マルタのように彼に尽くすわけでもなかった。

 蒔野に対しては、自分は早苗の言う通り、マリアであり得たのだろうか? そして、それでは彼は立ち直れなかったのだと。しかし、エックハルトは、マリアもいずれは、時間と共にただ神の傍らにあるという「歓喜と甘美さ」から発って、マルタのような「永遠なる浄福」のために、事物の傍らに立って「奉仕の生活」を始めると説いたのではなかったか。……

 洋子は、そんなことを長い一瞬に思索し、結局、こんな考え方の何もかもが間違っているのだと結論した。決して信仰ではない。自分はただ、彼を愛していたのだからと。そして、早苗はまさに、蒔野を信仰するかのように愛してきたのだということが、ひしひしと伝わってきた。その愛の渦中で、今、一つの命が彼女の体に宿っている。

 洋子は、何も言えずに黙っていた。


第八章・真相/24=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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