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『マチネの終わりに』第七章(24)

 産休に入ると、洋子は、世間の金融業界への批判の高まりを受けて、これまでまともに読んだことのなかったリチャードの学術論文に初めて仔細に目を通した。そして、その幾つかの内容に不安を覚えた。

 経済理論は門外漢で、論文を埋め尽くした複雑な数式の数々を、彼女は必ずしも理解出来なかったが、リチャードが、個人の住宅ローンの焦げ付きの確率を、銀行が企業の不動産取得のために融資した資金の貸倒れの確率を元に計算し、それを証券化のリスクの根拠としているのは、幾ら何でもおかしいのではないかと思った。そもそも、借金の動機が異なるし、債務不履行に至るプロセスでも、個人の複雑な内面と、法人の経営判断とでは、まるで違っているはずだった。詐欺的な貸し付けという意味では、個人の方が遥かに騙されやすいだろう。実際、そうして優良債権と混ぜこぜにされた返済不能の住宅ローンが、今や世界中にカビの生えたパンのようにばらまかれて、金融市場のあらゆる隅々で食中毒を引き起こしているのだった。

 リチャードは、洋子の指摘に対して、まるで秘密のメールでも覗き見られたかのように激高した。洋子はむしろ、彼のまっとうな説明によって、自分の無知な誤解を訂正し、懸念を払拭したいと願っていたので、その反応に当惑した。言い方が悪かったのかもしれないと謝り、改めて質問したが、落ち着きを取り戻してからも、リチャードの答えは要領を得なかった。

「君はそう言うけど、ノンバンクの個人の住宅ローンの焦げ付きなんて、元々、統計がないんだから仕方がないんだよ。」

 彼らは、お互いの職業を理解していたが、ジャーナリストの仕事の場合、大抵のことが一般人との会話の話題となり得るのに対して、リチャードの方は、自分の専門の込み入った話を洋子にほとんどしなかった。洋子も特に尋ねなかった。

 だから、洋子がリチャードに抱いた好意も、彼の職業とはあまり関係がなかった。その点では、まさしく彼の音楽自体を愛していた蒔野の場合とは違っていた。

 リチャードは、彼が研究している新しい金融商品は、経済的に不遇な人々に、投資先もなく余りに余っている市場のマネーをもたらし、住宅購入費用に当てさせる、非常に合理的な手段なのだと、洋子に説明していた。


第七章・彼方と傷/24=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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