『マチネの終わりに』第八章(50)
蒔野の気持ちを、何よりも尊重すべきだったのだと、これまでずっと自分に言い聞かせてきた。「洋子さんならきっと理解してくれる」と蒔野は言ったのだった。それ以上、彼に何を言わせるべきだっただろうか? それでも追い縋るべきだったとは思うものの、それが出来ない精神状態だったからこそ、診断名もつき、薬も飲んでいたのではなかったか。
早苗の告白により、真相を知ってからは、しかし、何か出来たはずだったという思いが、彼女の心から平穏な諦念を奪ってしまっていた。それは、必ずしも不可抗力の運命ではなかったのではないか。……
「また新しい映画を撮りたいと思ってる。映画学校で教えるのも辞めて、時間が出来たからね。」
「ああ、……素晴らしいことね、それは。」
と、洋子は眸を輝かせた。父の映画を最後に見たのは、もう何年前のことだろうか?
「けれども、脚本はなかなか進まない。――教科書的な話だが、悲劇について、古典悲劇が運命劇であるのに対して、近代の悲劇は性格劇だと言われるだろう?」
「ええ。」
「オイディプスが実の父を殺し、母を娶ってしまったのは、避けようのない運命だった。しかし、オテロの過失は、彼の激情的な性格に起因している。あんなに単細胞で、怒りっぽくなければ、ハンカチ一つでデズデモーナを殺すこともなかっただろう。勿論、実際にはもっと複雑だが、……」
「ええ、勿論。」
「だが、……人間は結局、もう一度、運命劇の時代に戻っているのではないかと近頃よく思う。“新しい運命劇”の時代なのかもしれない。私のような小説的な映画ではなくて、早くから叙事詩的な英雄物語を描いてきたハリウッドの方が、そういうことにはずっと敏感だ。《マトリックス》とか、色々ある。」
洋子は、椅子の背に軽く体を預けて腕組みした。そして、具体例を二、三、思い浮かべて頷いた。
「リチャードとも、そういう話を随分としたのよ。グローバル化されたこの世界の巨大なシステムは、人間の不確定性を出来るだけ縮減して、予測的に織り込みながら、ただ、遅滞なく機能し続けることだけを目的にしている。紛争でさえ、当然起きることとして前提としながら。
第八章・真相/50=平野啓一郎
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