第一章 出会いの長い夜

『マチネの終わりに』タイアップCD発売(2016年10月19日)を記念して、各シーンを振り返りつつ、登場する収録曲をご紹介していきます。リンク先(テキストの下線部分もしくは記事最後の紹介リンク)をクリックすると視聴が可能です。今回は、蒔野の「デビュー二十周年記念」コンサートの最終日、サントリーホールでの演奏の場面とその収録曲をご紹介します。

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第一章 出会いの長い夜
(単行本 P.10)

 蒔野のこの夜の演奏は、後々まで、ちょっと語り草になるほどの出来映えだった。
 メインは新日本フィルとの共演によるアランフェス協奏曲で、三度に及んだアンコールでは、ラウロの《セイス・ポル・デレーチョ》、蒔野自身が編曲したブラームスの間奏曲第二番イ長調、更には武満徹の編曲によるビートルズの《イエスタデイ》まで披露した。楽器は、普段はフレタを愛用している彼には珍しく、グレッグ・スモールマンが使用された。
 まだ高校在学中の十八歳の時にパリ国際ギター・コンクールに出場して優勝し、鳴り物入りのデビューを飾って以来、蒔野の演奏は、常に危なげなく安定していた。二十年という年月を経てみてわかったことは、彼は単に才能に恵まれただけでなく、数ある才能の中でも、特に良いものに当たったのだった。
 蒔野の演奏を聴いていると、しばしば人は、息をすることを忘れてしまった。そのあまりの完璧主義に、「聞き流すことができない」とよく評されたが、これは必ずしも褒め言葉というばかりではなく、幾らかは「疲れる」という意味の苦笑も含まれていた。
 最初から、ジャンルを問わず、何を弾いても上手すぎるせいで、才能を弄んでいるように取られる一方、思索的とも評されるのは、チェス盤でも眺めているかのような演奏中の表情も手伝ってのことだった。
 この日も、楽曲の理解は透徹していて、思いがけない斬新な解釈が聴かれても、一瞬後には、なるほどねェ、と深く納得された。細部が全体を活気づけ、また全体が細部に於いて生き生きと精彩を放っていた。通人ほど退屈するアランフェス協奏曲の第三楽章でさえ、きびきびとした音符の筋肉の陰翳まで見えそうな躍動感で、誰が弾いてもなかなか立派に聞こえないこの難物も、こんなに良い曲だったろうかと、これ見よがしに苦笑し、首を傾げる批評家の姿さえあった。
 要するに、その説得力を前にしては、好き嫌いを超えて、もうケチのつけようがなかった。
 アンコールでは果たして、待ち構えていたかのように総立ちとなった。
 皆がなんとかして自分の拍手の音を届かせようと、少し背を仰け反らせながら、できるだけ腕を前に突き出して手を叩いた。感動の大きさが、拍手の打点の高さと比例するというのは、この日の会場のひとつの発見だった。
 蒔野は、カーテンコールの度に、少しずつニュアンスの違う洗練されたお辞儀をした。満足感を表現し、感動していることを伝え、少しくたびれていることも隠さなかった。その照れ笑いには、先ほどまでの神妙な面持ちとは違う、彼が折々、テレビのトーク番組などで見せる爽快さがあった。

 終演後、ロビーは騒然とし、その相乗効果で、何か大変な名演を聴いた気がしていた人々は、やっぱりそうだったのかと自信を持った。連れ合いのいない者は、早速その興奮をネットに書き込み始め、立ち止まったり、人にぶつかったりして方々で迷惑がられた。
 後にCD化され、レコード・アカデミー賞を受賞することとなるこの日の録音は、クラシックの──それもギターの──アルバムとしては、かなりの売れゆきとなった。
 専門誌や新聞だけでなく、テレビの情報番組でも取り上げられたので、音楽に興味のない者たちも、蒔野というのは、やっぱりそんなに凄いのかとぼんやりと再認識した。
 この日のコンサートを聴いたことの価値は、後には更に高まった。
 というのも、蒔野聡史の音楽活動は、この後唐突に、長い沈黙に入ることになるからである。

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★「第一章:出会いの長い夜」で紹介した曲の視聴
01.アランフェス協奏曲 より II.アダージョ (ロドリーゴ)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/oag63l66

02.イエスタデイ (レノン&マッカートニー/武満徹編)
https://mz-edge.stream.co.jp/v/at4fd4vj

★タイアップCDの先行予約はこちらから(2016/10/19発売予定)
https://storeshirano.stores.jp/

特典:新聞連載の挿絵を描いてくださった石井正信氏による「しおり」。毎日新聞での挿絵は、単行本に生かされませんでしたが、CDのブックレットにはふんだんに盛り込まれています。平野と福田氏の対談もぜひご覧ください。

★『マチネの終わりに』単行本ご購入はこちらからhttps://www.amazon.co.jp/dp/4620108197

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平野 啓一郎

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