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『マチネの終わりに』第七章(6)

「三谷さんでいいよ。結婚してからも、仕事は蒔野じゃなくて三谷でしてるから。今回は、家で留守番してる。日本での仕事もあるし。」

「なんか、三谷さんが蒔ちゃんの奥さんっていうのが、未だにふしぎな感じだけど、でも、他に誰が?って言われたら、やっぱり、三谷さん以外にはいない気がする。みんな同じこと言ってるけど。」

 蒔野は、肩を窄めて微笑した。

「俺自身が、一番ふしぎだよ。……でも、まァ、そうかもしれない。俺は、彼女には頭が上がらないところがあるから。祖父江先生の介護でも、俺の恩人とは言え、本当に献身的だし。」

「祖父江先生はどう?」

「退院はしたんだけど、麻痺がかなり残ってる。」

「ギターは?」

「そんな状態じゃないよ、全然。リハビリはしてるけど。」

「そうなんだ、……」

「施設に希望は出してるんだけど、それも順番待ちで、今は週に二回、介護士に来てもらって、奏(かな)ちゃんが面倒を看てる。ただ、彼女も子供を二人抱えて大変だから、俺も手伝える時は行ってるんだけど。」

「蒔ちゃんがつきっきりで介護してるって話、聞いたよ。偉いなと思って。」

「つきっきりっていうのは大袈裟だけど、先生の教室があるからさ。しばらく、俺がレッスンを見てたんだよ。小さい子から、フランスに留学したいっていう高校生まで。」

「忙しいのに。」

「ところがさ、奏ちゃんの上の子が、手足口病っていうのに罹っちゃって。知ってる?」

「ううん。」

「両手足と口の中に赤い斑点みたいなのがいっぱい出来て、熱とか出るんだけど、まあ、夏風邪の一種で一週間くらいで治るんだよね。それが、保育園でなぜか冬に流行して、俺も奏ちゃんの子供を預かってたら感染しちゃったんだよ。ところが、大人が罹るとさ、酷いんだよ、水疱瘡とか、ああいうのと同じで。口中が口内炎だらけになって、喉の奥なんて、口内炎の銀河みたいになってて。それがもう、痛いのなんの。唾飲み込むのでさえ激痛が走るくらい。」


第七章・彼方と傷/6=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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