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『マチネの終わりに』第七章(36)

 蒔野は、まるで先ほど、洋子のことを考えていたのを見透かされたかのようなその忠言に動揺した。そして、唇を固く結んで頷くと、自分に言い聞かせるように、「……ええ。」と言った。

 練習を再開した日、蒔野は、長年、演奏の前に自らに課してきた独自の柔軟体操を、最後のためらいを説き伏せるようにして入念に行った。

 腕だけでなく、呼吸を意識しながら全身を隈なく解してゆく。手足口病に罹って両手の爪が剥がれてしまい、ギターを弾けなくなってからは、祖父江の教室の生徒たちにも、その体操を教えていた。

「無理しちゃ駄目だよ。違うやり方が良かったら、それでもいいから。大事なのは、日常生活に最適化されてる体を、演奏前に一度、体そのものに戻してやることだから。足はしばらくは、駅の階段を駆け上がるんじゃなくて、ただ楽器を支えて、音楽そのものを支えるために繊細であればいい。必要な箇所に、必要なだけの力がスムーズに出入りするように、余計な強ばりを解いてやるような感じ。――わかる?」

 大体みんな、半信半疑で、一応言われた通りにはするものの、自分では取り入れないだろうという表情だった。こんなヨガのような、整体のようなことを、この人はいつも楽屋でひとりでやっているのだろうかと、笑いを堪えきれない風の者もあった。そして、実際に楽器を手に取ってみて、その効果に驚き、試しに録音した自分の演奏に目を瞠るのだった。

 二階の練習部屋で柔軟体操を終えると、蒔野はあまり長くならない程度に目を閉じて息を整えた。それからようやく、楽器に手を伸ばした。三十代後半に一番よく弾いたフレタで、ネックを握って持ち上げると、体の内側の明かりの消えていた部屋に、照明が灯ったような感覚があった。

 最初は時間をかけてスケールの練習から始めるのが、蒔野が幼少期から墨守してきた習慣だったが、この日は、軽く指慣らしをして、いきなりヴィラ=ロボスの練習曲第一番を弾いてみた。続けて第三番を演奏し、苦笑したり、首を傾けたりしながらどうにか最後まで辿り着くと、天を仰いで声もなく笑った。そして、下を向くと、たったそれだけで息を切らしたような哀れな両手を見つめた。


第七章・彼方と傷/36=平野啓一郎

#マチネの終わりに


▲ヴィラ=ロボスの練習曲第一番


▲ヴィラ=ロボスの練習曲第三番

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