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『マチネの終わりに』第八章(53)

 しかし、そのための資金提供者の中に、チトーと対立した私を、民族主義者だと信じていた国外の極右のグループがいたんだ。チトーは、《ダルマチアの朝日》の最後の場面で、大地に横たわる主人公の死体を、パルチザンの犠牲に対する詩的なオマージュとして理解していた。しかし、民族主義者たちは、あの主人公を、パルチザンというより、まさにクロアチア人そのものとして受け止め、心底感動していたんだ。……クランク・インしてから間もなく、私の映画が、彼らの望んだ内容のものでなかったことが発覚した。プロデューサーにも責任があったはずだ。金集めのために、どんな説明をしていたのか。話があれだけ拗れたのも、思想的、政治的理由だけでなく、金の問題も一つにはあったのだろう。実際に脅してきたのは、マフィアみたいな連中だったが。……」

 洋子は、深いため息を吐いた。「それで?」

「私の懸念は、お母さんやお前に危害が及ぶことだった。二度、転居したあと、私はお母さんと、今後のことを話し合った。私との結婚を、潜伏生活をしながらでも続けるかどうか。」

「お母さん、……何て?」

 ソリッチは、下を向きながら帽子を被(かぶ)り直すと、

「無理だと言った。洋子をこれ以上、危険に曝すわけにはいかない、と。もっと真面な環境で子育てをしたいと言った。私は納得した。だから、別れたんだ。私の経歴からも、完全にお前たちの記録を抹消して。――しかし、それで良かったんだ。私はそれから四年近く、身を隠しながら生活をしていたからね。」

 洋子は、震える唇を噛み締めて、小刻みに頷いた。ソリッチは、娘の肩を抱き寄せた。

「お母さんは、心の中では、自分の冷淡さを責め続けていた。しかし、お前にこの話をしなかったのは、怖がらせたくなかったからだろう。」

「そう、……」

「私は、英語が話せないお前と、時折、密かに再会しても会話が出来なかった。大人になってからは、いつか話すつもりでいたが。」

 洋子は、父に寄りそいながら、片手で目を拭って、頭に乗せていた黒いサングラスを掛けた。その体の震えを鎮めようとするように、ソリッチは娘を更に強く抱擁した。

「それを、お父さんは後悔してる?」


第八章・真相/53=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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