ある男|12−2|平野啓一郎

愛されている、という手懸かりを見出すことは容易ではなく、では、自分は愛しているのかと問われれば、言葉に詰まった。しかし、愛していないとは、決して言えなかった。

何か一時の激しい対立の結果というわけでもなく、十年という結婚生活を経て、緩やかに崩れゆく関係を、どう立て直すべきか、城戸はその方法を考え続けていた。互いに、この数ヶ月というもの、指一本触れぬ生活を続けていて、二つの肉体の間には、何かの不注意で触れ合ってしまうことさえないような、慎重な、他人らしい距離があった。

それでも、香織の方でも、踏み止まろうと努力しているのは確かだった。

夫に対しては、極力、感情的にならぬように気を遣っていたが、その分、颯太への叱責は、折々激昂を伴うようになっていた。彼は、彼女のそういう姿を、十年間一緒に生活してきて、これまで一度として目にしたことがなかった。

颯太は颯太で、極真っ当な自我の発達から、頭ごなしに命じられることには、このところ強く反発するようになっていて、母子の関係は悪循環と言うより外なかった。

城戸は、香織にそのことを指摘したが、それは、触れれば壊れるような夫婦関係に怖々手を伸ばすような、まったく不十分なものだった。その代わりに、彼は風呂や寝室で、颯太を慰め、抱擁しながら話を聞いてやったが、誤魔化しとしか言いようのない自分の態度に、嫌悪感を覚えた。それは、自分がこうでありたいと願ってきた父親像からはほど遠かった。

妻の中に鬱積しているものの原因が、自分にあることは承知していた。しかし、馬鹿げた浮気の疑いなどの奥にある、根本的な苛立ちの原因に踏み入ろうとする度に、城戸はどうしても足が竦んでしまった。そうして、ほとんど趣味的な〝X〟探しに、束の間の現実逃避を求めている。

夫婦関係だけなら、それでも構わない。しかし、両親の不仲が、子供に悪影響を及ぼすというのは、彼が何としても避けたい、決して受け容れ難い状況だった。

城戸は、子育てに関してはさしたる定見もなかったが、颯太が将来、ふと、自分は愛されて育ったのだと、一片の疑いもなく信じられる日が来たなら、それに勝ることはないと思っていた。その考えには、勿論、香織とて同意しないはずがなかった。

颯太は、父親には決して反抗しなかった。城戸は、自分の欺瞞的な優しさを憎みつつ、結果的には息子との間に、何か特別な信頼関係が築かれているような錯覚を抱いていた。しかし、妻が家を空ければ、颯太がそのフラストレーションをぶつける先は、当たり前のように父親なのだった。

城戸は、そんなことはわかりきっているはずなのに、颯太の反抗に、終いには目も当てられないほど感情的になって、なかなか履かない靴下を投げつけ、頭に手を置いて、「いいかげんにしろ!」と怒鳴りつけた。

ただ、手を置いたのではなかった。言い聞かせるようなその素振りで、彼は恐らくは頭を叩いたのだった。そして、咄嗟にそのことに気づき、半ば無意識にそれを隠そうとして、頭から手を離さなかった。颯太は、怯えたように泣き止んだ。彼は怒気とともに鷲?みにした手を見つめた。そこに籠もった力には、彼が暴力に対して唾棄するもののすべてが、何一つ欠けることなく揃っていた。

胸の内で、何か酷く汚らしいものが破裂してしまったような感じがした。城戸は、一旦その場を離れると、顔を真っ赤にして嗚咽しながら靴下を履く颯太を、最後には抱きかかえて泣き止ませた。そのまま、黙ってこども園に送り届けたが、子供の背中が見えなくなるや否や、後悔に駆られ、酷く惨めな気持ちになった。

離婚訴訟で児童虐待の悲惨な事例に触れる度に、彼は、子供をかわいそうに思う傍ら、そうせざるを得ない人間に生まれつき、そうならざるを得ない環境に生きている親たちに幾らか同情を寄せたが、それも、本質的には自分とはまったく異なる人間と思えばこそだった。

しかし、今の生活がもっと不遇であったなら、自分は或いは、子供を殴る親だったのかもしれないと、彼は初めて真剣に考えた。その想像は、彼の自分という人間に対する信頼を深刻に損なってしまった。最後には、抱きしめ宥めはしたものの、それとて、暴力とハネムーン期を繰り返すDVの加害者の典型のようだった。

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平野 啓一郎

ある男|平野啓一郎 連載小説

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