『マチネの終わりに』第六章(40)

 一旦、走りかけたものの、運転手は左に車を寄せて停車し、ドアを開けた。蒔野は呆れて文句を言おうとしたが、その時間も惜しく、苛々しながらタクシーを降りた。運転席からは、弱々しい謝罪の声が聞こえた。蒔野は、丁度すぐ後ろから来たタクシーを強引に止めた。

 今度は、問題なく車が走り出した。運転手は、

「お客さん、今、前のタクシー降りられたみたいですけど、何かありました?」

 と尋ねたが、蒔野はそれに生返事をして、落ち着かないまま窓の外に目を遣った。

 間に合うだろうかと、考えた。ほんの数カ月前に共演した時には、あんなに元気だったのに。

 奏(かな)の兄の響(ひびき)は、ヴァイオリニストとしてカナダを拠点に活動していた。祖父江の妻は、二年前に他界しているが、祖父江が倒れた原因には、その看病疲れの名残もあるのではないかと蒔野は察した。奏は、母親が亡くなる少し前に結婚して、今は二人目の子供が、まだ一歳にもなっていない。祖父江が助かることが何よりだが、その時に、今後の介護の負担が一番重く伸しかかるのは、彼女だろうと、蒔野は先走った心配をした。

 フルートの道に進もうとして諦め、今は中学校の音楽教師をしている彼女。祖父江は、響に期待していたが、蒔野の目には、奏への愛情は格別であるように見えていた。病院で独り父の身を案ずる彼女の胸中が思いやられた。自分としても出来るだけのことはしたいが、と蒔野は考えた。……


 病院に着く前から、車のフロントガラスを重たい音を立てて大粒の雨が打ち始め、やがて驟雨になった。

 蒔野はタクシーを降りて玄関の自動ドアを抜けたところで、奏に電話しようとして、自分が携帯電話を持っていないことに初めて気がついた。

 家を出る時には、確かに手に持ったはずだったが、記憶が曖昧だった。タクシーに置き忘れてしまったのだろうか? ゆったりとした化繊混じりの綿のズボンだったので、ポケットから滑り落ちてしまったのかもしれない。

第六章・消失点/40=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

小説家です。著書は小説『ある男』『マチネの終わりに』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』、エッセイ『私とは何か「個人」から「分人」へ』など。

『マチネの終わりに』後編

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