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『マチネの終わりに』第六章(26)

「え、……ああ、……」

「てっきり取ってるのかと思ってた。去年のコンサートのあと、蒔野さん、洋子に会えたこと、ものすごく喜んでたから。色んなところで洋子の話してた。」

「あなたが、手が早いなんて言うから気をつけてたのよ。」

「あー、冗談半分よ。まぁ、なんであの人、結婚しないのって話になったら、モテるから遊んでる方が楽しいんでしょうってみんな言うけど、わたしもそんなに私生活を知ってるわけじゃないから。一切話さないし、そういうこと。憶測よ。――なかなか、ああいう人とつきあえる女もいないでしょうしね。蒔野さんは、本当に天才だから。わたしも色んな音楽家と仕事してきたけど、音を聴いて、すぐにあんなふうに、ああ、この人は他の人とは全然違うって感じる人、楽器を問わず、日本人にはなかなかいないから。普段どんな生活してるのかは謎だけど、時々、会場で考えごとしてる時の表情見てると、大変な人生だなって思う。練習も、コンサート前の緊張も、それは本当に。……ああいう人は、最後はやっぱり、三谷さんみたいな人が、パートナーになるんじゃない? みんな言ってる。」

「三谷さんって、……あのマネージャーの?」

「そうそう、酔っ払って洋子に絡んでたあの元気な子。蒔野さんも、レコード会社の買収でゴタゴタしていて、今は彼女が一人で奮闘してる。わたし、今年の初めだったか、あの人に言われたことが忘れられないの。」

「何?」

「みんな、自分の人生の主役になりたいって考える。それで、苦しんでる。自分もずっとそうだったけど、今はもう違う。蒔野さんの担当になった時、わたしはこの人が主役の人生の“名脇役”になりたいって、心から思ったって、そう言うの。」

「名脇役?」

「そう。役者だって、主役向きの人もいれば、脇役向きの人もいるでしょう? 彼女は、どんなに想像してみても、自分が主演を務める人生には、ドキドキしないんだって。『三谷早苗の伝記映画なんて、誰が見に行きます? でも、蒔野さんの伝記なら見たいでしょう? そこには、三谷早苗っていう登場人物は欠かせないんです。それって、すごくないですか?』って。


第六章・消失点/26=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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