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『マチネの終わりに』第七章(9)

 武知は、そう言って肩を揺すって笑った。蒔野は、音楽業界の惨状は言うまでもなく知っていたが、武知の活動がそこまで行き詰まっているとは想像していなかった。

「去年のリーマン・ショック以降、特に厳しくなってるからね。……」

 そう、漠然とした受け答えをしたが、武知はそれに間髪入れず反応した。

「蒔ちゃんは、でも、復帰したらまたすぐにコンサートも出来るし、CDも出せるからいいよ!」

「そうでもないと思う。そもそも、復帰できるかどうかもわからないし。」

「勿体ないよ、僕なんかからすると。」

 蒔野は、武知の言葉に微かな棘を感じ、「どうかな、……」と言ったきり、うまく先を続けることが出来なかった。

 それからしばらく、「うわっ、まだこんなに?」と、運ばれてくる度に皆が目を丸くするような大皿の料理を食べながら、周囲も交えて英語で話をした。

 先ほど、残り香の話の時に言われた「あとを追わなかったのか?」という言葉が、酔いとともに妙な具合に頭の中を回って、蒔野に唐突に洋子のことを思い出させた。

 あれから二年。――彼女は今、どうしているのだろう?……

 彼女の愛を引き留めるために、あの時、何かもっと出来ることがあったのではないか?

 そんな未練がましい追憶に足を掬われそうになる度に、首を振って前を向こうとした。せめて彼女を憎もうと、酔った勢いで、「昔つきあっていたある女の話」として面白可笑しく人に悪口を言ってみたこともあったが、その後しばらくは、憂鬱に手がつけられなかった。勝手な話だが、その時に同調して、その匿名の「女」を嘲笑った知人たちに、蒔野は内心、嫌悪感とも言うべきわだかまりを残していた。

 そもそも、「つきあっていた」などと言える関係だったのだろうか? 二人で会ったのは、たったの四回だけだった。彼女のことを責めることさえ出来ないほどに、結局は、愛とも呼べない何かだったのではあるまいか。


第七章・彼方と傷/9=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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