『マチネの終わりに』第八章(9)

「あら、口説いてくれるの?――あなたが煙草を止められるならね。」

「無理だと思って言ってるんだろう?」

 洋子は、笑って煙草を消してみせた彼を、愛おしげに見つめた。

「変わらないわね、あなたも。大変な仕事を続けてるのに。」

「君こそ、全然変わらない。魅力的だよ、今でもとても。……イラクから帰国したあとの君の体調の悪化は、俺にも責任がある。君の人生も狂わせてしまったかもしれない。」

 洋子は、彼がまだ語り終わらぬうちからそれを否定した。

「あとに続く人もいるし、管理者として反省するところはあると思うけど、わたし自身も、そのシステムの改善のために、事例を一つ提供したっていうつもりでいるから。自分も含めて、誰も責めないことにしてる。――あなたのことは、心から尊敬してる。本当に。今後の生き方を迷ってた時期だから、久しぶりに、ゆっくり話せて良かった。」

 フィリップは、唐突に、自分の人生を、一つの風景として眺めさせられているかのような顔つきになった。そして、何か言おうとしていた。洋子は、その異変に鈍感ではなかったが、ほど経て、彼の口を衝いて出たのは、結局、極ありきたりな別れの挨拶だった。

 洋子は、この時のフィリップの表情をいつまでも忘れなかった。それは必ずしも、彼らしい顔というのではなく、むしろ彼とて、まったく違った生き方も十分にあり得ただろうにと想像させずにはいない顔だった。

 ジャリーラとは、翌日連絡が取れて、やはりしばらくスカイプで話をした。フランス語も上達していて、そのことを褒めるといつものように喜んだが、泣き疲れた目には、両親の死を知って以来の放心のあとがありありと残っていた。

 彼女は、なぜ自分だけが生き残ってしまったのかと、その意味を考えることに苦しんでいた。あの時なぜ、自分一人で逃げてきてしまったのか。なぜイラクに留まるという父の決断を、その後、説得して変えさせることができなかったのか。……

第八章・真相/9=平野啓一郎 石井正信・画

#マチネの終わりに

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平野 啓一郎

『マチネの終わりに』後編

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コメント1件

フィリップは、沈黙の数秒間に、ありえたかもしれない洋子との人生を想ったのでしょうかね。あのときに言わなかった言葉をいまいうことも、考えたのでしょう。でも、言わなかった。洋子も求めなかった。深い深い!なぜ、どうして?
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