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ある男|22−3|平野啓一郎

道中、城戸は、里枝の依頼で「谷口大祐」さんの遺産の処理などを手伝ううちに、林業に興味を持つようになった、色々な依頼者がいるので、珍しい職種の人に会った時には、その都度、知識を身につけておくようにしていると、改めて簡単に説明した。伊東は、わかったようなわからないような顔をしていたが、「ほう、そうですか。」と愛想良く相槌を打っていた。城戸は、心の中ではもう、里枝の夫を「原誠」と呼び慣わしていたが、この辺りの人の間では、彼は今もまだ、「谷口大祐」のままなのだった。

伊東は、色黒の強面だったが、話し好きの、さっぱりとした好人物だった。小さな音でFMラジオをかけながら、城戸の関心を探るように、最初は林業一般の話をした。

伊東林産は、基本的には国有林の伐採の権利を買っているらしく、五ヘクタールくらいの場所を大体三ヶ月で伐採し終える計算で、二年先くらいまでは仕事が入っているという。補助金で成り立っている事業で、外材との競争も厳しいが、バイオマス発電所が出来て、どんな木でも売れるようになり、景気は悪くないとのことだった。

「弁護士の先生なら、ちょっと興味を持たれるかもしれませんけど、最近は質の悪い新規参入業者もいて、そういうのの中には、盗伐したりとか、メチャクチャやってるとこもあるんですよ。」

「そうですか。」

「山は、今は遺産相続でも嫌がられるから、ネズミ算的に権利者が増えて、もう、誰の所有かわからなくなってるようなのが、あちこちにあるんですわ。悪徳業者は、そういう山のすぐ隣の小さい現場を買うんですよ。で、その所有者不明の山の木まで全部伐って持ってっちゃうんです。」

「ヒドいですねぇ。」

伊東が面白いでしょう? と言わんばかりに語るので、城戸も思わず笑って言った。

「業界の問題でもありますからね。どうかしないと。私たちも、古い山の持ち主を確認するために、戸籍を見ることがあるんですが、権利者が枝分かれして、もうグチャグチャなんですわ。」

「そうでしょうね。」

城戸は、「戸籍を見る」というのは、「登記簿を見る」の間違いだろうと思ったが、敢えて口にはしなかった。それよりも、原誠は生前、伊東とこんな話もしたのだろうかということの方が気になった。

周囲の住宅は少しずつ疎らになっていって、やがて木立に囲まれた未舗装の山道に入った。

「ちょっと揺れますよ。……さっき通ってきた辺りの民家、ああいうのは大体、昔ながらの林家ですよ。」

「そうですか。」

山だから、ということでもないだろうが、雨が強くなって、ワイパーの動きが忙しくなった。前方は木立に覆われているが、頭上は開いているので、光はよく差した。背の低い雑木の繁茂が、時折フロントガラスをくすぐり、車体が揺れる度に、泥水の翼が、タイヤの下で驚いたように羽ばたいた。尻に伝わってくる振動には、冒険的なものがあった。

杉は、まっすぐ垂直に伸びるので、濡れそぼった窓からは、霞の中に浮かび上がっているその足許だけが見える。急峻な道を走っているので、今日は霞んで見えないが、その木々の先には、ただ空だけがあるはずだった。

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