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ある男|21−1|平野啓一郎

谷口大祐に会い、原誠との戸籍交換について話を聴いた後、城戸は一先ず、中断していた、里枝に渡すための報告書を書き上げた。原誠については、まだ知りたいこともあったが、一年三ヶ月に亘ったこの調査を、ともかくも一旦、終わらせる必要を感じていた。

城戸は、香織に言われた通りに、職場近くのクリニックで、臨床心理士のカウンセリングを受けたが、質問の仕方に職業的な関心が向いてしまい、根掘り葉掘り尋ねて会話は盛り上がった。またいつでも、と言われたものの、結局、足を運んだのはその一回きりだった。

香織は、それを聞いて安堵したが、いざ自分となると腰が重かった。それでも、城戸が約束を無理強いしなかったのは、あの日の話し合い以来、彼女の態度に変化があり、颯太が叱られて泣く機会も目に見えて減っていたからだった。

必ずしも、自然に、というわけではなく、城戸は寧ろ、妻の方にも家庭を立て直そうとする意思と努力を感じた。震災だけでなく、排外主義の拡がりに、彼女の立場で感じている精神的負担を改めて共有したあとだけに、彼も出来るだけ、協調的でありたかった。気遣いの至らなかったことにはすまないという気持ちがあり、また、感謝もしていた。

城戸のその思いは、今に至るまで揺らぐことはない。

従って、里枝との再会の三日前に起きた次のような出来事は、とある平凡な週末の取るにも足らない記憶として、彼の中では既になかったことになっているのである。

その心境が、理解できないという人もいれば、わかる気がするという人も恐らくはいるであろうが。

城戸の家族は、朝から颯太がずっと行きたがっていたスカイツリーを訪れていた。

東横線と半蔵門線を乗り継ぎ、十一時頃に到着したが、二年前の開業時の混雑も、そろそろ解消されているのではという呑気なアテは外れ、取り分け、春休みの週末だけに、整理券の配布だけでも二時間待ちと告げられた。

窓の外には、快晴のめざましいほどに青い空が広がっていた。

いい休日だなと、城戸はそれを見つめながら思った。

昔、何かの小説で読んだ「ああかかる日のかかるひととき」という嘆声が脳裏を過ぎった。まさにそんな気分だったが、誰の本だったかは、どうしても思い出せなかった。

香織は昨夜は会社の飲み会で、城戸も寝てしまったあとの深夜に戻ってきたが、その割に二日酔いもなく、起きてからずっと機嫌が良かった。

「どうする? ならぶ?」

母親に笑顔で尋ねられた颯太は、親指の爪を噛んでその目を見ると、しばらく迷う風にクネクネしていたあとで、「やっぱり、すいぞっかんにいく。」と言った。

城戸は本当にそれでいいのかと確認したが、

「いいから、いこー。」

と腕を引っ張られた。大人の顔色をよく見るようになったが、それが年齢相応なのか、過敏なのかは城戸にはわからなかった。スカイツリーは真下から見上げただけで満足することにした。

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