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『マチネの終わりに』第六章(38)

 ろくな演奏も出来ずに、ファンに囲まれて、かっこいいだのすごいだのと持て囃されている様を想像すると、いよいよ気が滅入った。
 彼は三谷に、野田は今までのレコード会社にいなかった新しいタイプの社員で、一緒に仕事をしてみたいから、もう少し色んなことを話してみてほしいと、二人きりになった時に伝えた。
 三谷は、久しぶりに、そんなふうに蒔野から頼られているということを実感できて嬉しくなった。彼が本調子でないという事実こそが、最大の懸念だったので、野田との交渉など、煩瑣な仕事を自分が引き受けられることにはやりがいを感じた。野田の発想が上手くいくのかどうかは、まだピンときていなかったが、確かに、岡島のような人間と仕事をしないというのは、こういう方法を探るということなのかもしれない。

 彼女はそうして、蒔野の役に立つことで、やはり洋子の存在と張り合っていた。予定では洋子は、八月末に来日して、しばらく蒔野と一緒に過ごすらしかった。
     *
 洋子は、八月二十九日午後四時半に成田空港に到着予定だった。
 蒔野は最初、空港まで迎えに行くつもりでいた。それが、パリの空港にいる洋子から出発前に電話がかかってきて、飛行機が今三時間遅れで、まだ見通しが立たない、到着時間が不安定なので、出来れば直接、蒔野の自宅に向かいたい、成田エクスプレスに乗ったら連絡するから、と告げられた。彼女は、シャルル・ド・ゴールではよくあることだけど、ウンザリしていると苦笑して、早く会いたいのにと言った。蒔野も、同じ気持ちを伝えて、荷物もあることだし、新宿までは迎えに行くことにした。

 その後、洋子から短いメールが届いて、結局、三時間遅れで搭乗したらしいことがわかった。ざっと計算して、新宿には九時前後の到着だろうと予想し、蒔野は、サンドイッチで軽く腹ごなしをした。駅に迎えに行ったついでに何か食べるか、そのまま自宅に向かうかは、彼女の疲労次第で決めることにした。


第六章・消失点/38=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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