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『マチネの終わりに』第四章(4)

 蒔野は、六月三日に現代ギターの父であるアンドレス・セゴビアの没後二十年を記念して開催されるフェスティヴァルに招待されており、その後、かつて彼も学んだパリの音楽学校でマスタークラスを受け持つこととなっていた。週末の最終日には、校内のホールで学生らを含めた演奏会が催される予定で、年明けのメールでは、それに洋子も招待していた。
 そのマチネの終わりに、彼女のために《幸福の硬貨》のテーマ曲を演奏するつもりでいた。
 洋子には、すぐに返事を書いた。無事を歓び、彼女の「長い長いメール」の宛先として、自分を選んでくれたことに感謝した。そして、もちろん、パリ滞在は予定通りなので、その時にゆっくり、食事でもしながら話の続きをしようと誘った。
 洋子からは、今度は一日と置かずに、弾むような返事が届いた。「うれしい」という一言が、蒔野を幸福にさせ、同じ気持ちを抱かせた。
 蒔野は、自分の中にある、洋子に愛されたいという感情を、今はもう疑わなかった。胸の奥に、白昼のように耿々と光が灯っていて、その眩しさをうまくやり過ごすことが出来なかった。
 洋子も、自分を愛しているかもしれない。――彼女の言動に、そうした徴を見出す度に彼は苦しくなり、そうではないのではと思い直す時にも、結局、苦しくなった。そして、自分がそもそも、彼女の愛に値する人間かどうか、むしろ冷静であるために考えようとして、却って逆効果になった。
 なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。年齢とともに人が恋愛から遠ざかってしまうのは、愛したいという情熱の枯渇より、愛されるために自分に何が欠けているのかという、十代の頃ならば誰もが知っているあの澄んだ自意識の煩悶を鈍化させてしまうからである。

 美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味は、そんなことはないと簡単に慰めてしまう。そうして人は、ただ、あの人に愛されるために美しくありたい、快活でありたいと切々と夢見ることを忘れてしまう。しかし、あの人に値する存在でありたいと願わないとするなら、恋とは一体、何だろうか?


第四章 再会/4=平野啓一郎  

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